2009年07月15日
ブロック経済2 持てる国と植民地とのブロック構造1 ~スターリングブロックとは?~
1929年、ニューヨーク株式市場での株価暴落をきっかけに起こった世界恐慌以降、世界各国がブロック経済へと突入していく引き金を引いた、イギリスの保護貿易政策(スターリングブロック)とはどういうものだったのか?
今回は、その実態を探ってみたいと思う。

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スターリングブロックとは、英国が英連邦内の自治領及び植民地と、帝国諸国内での特恵関税協定(帝国諸国内でブロック経済圏を形成し、ブロック外の諸国に対する関税の壁を高くし、輸入を直接的に制限する)を結び、英本国の市場を英帝国内諸国に優先的に開放するとともに、英国の輸出市場を確保するという自給的経済圏の形成を目的としていた。
インドの綿布輸入関税率の例(オタワ会議以前)英国産品の関税率は25%、その他の国産品の関税率は31.25%
(オタワ会議以降)英国産品の関税率は据置、その他の国産品は50%(翌年には75%)に引き上げ
このブロック経済圏は、1932年にカナダのオタワで開かれた帝国経済会議(オタワ会議)によって結成された。これにより、自由貿易の先端を走っていたイギリスが保護主義に転換したといわれている。
ここで、イギリスが保護主義に転換するまでの経緯を見てみよう。
もともとイギリスは重商主義(国家の産業として商業を特に重要視した経済思想及び経済政策の総称。貨幣獲得の観点から輸出を善、輸入を悪とする考え方)的な保護政策をとっており、穀物法と呼ばれる小麦をはじめ大麦、ライ麦、オート麦、豆類、トウモロコシなどの穀物の輸出を奨励し、それらの輸入を禁止又は制限する事を目的とした法律があった。
1815年に施行されたこの穀物法は、表向き国内農業の保護を目的としていたが、内実は地主階級の利益を守る為の法律であり、産業資本家階級からの反発は大きかった。
産業革命以降の急速な資本主義の発展により、産業資本の力が増大し、1845年、ついに穀物法は撤廃され、イギリスは自由貿易体制へと移行した。
植民地支配の拡大とともに、自由貿易主義を推し進めたイギリスは、先進工業国という強い国際競争力を背景に、植民地から原材料を安く輸入し、それをもとにして作った工業製品を世界各国へ輸出し、大幅に貿易黒字を拡大させていった。
しかし、1870年以降、ドイツやアメリカなどの後進国の急速な経済的台頭により、イギリスの製品輸出が次第に困難になってきた。
1914年第1次世界大戦が勃発。ヨーロッパを舞台としたこの戦争によって、ヨーロッパ諸国の産業施設は大きな被害を受けた。
戦後、アメリカ経済に支えられてヨーロッパの産業も回復に向かったが、1925年に旧平価で金本位制に踏み切ったイギリスは、国内産業のデフレと貿易赤字を増大させた。
(詳しくはここを参照してください。(リンク))
そこに1929年の世界恐慌が追い討ちを掛けたのである。
○イギリスの貿易状況
(1913年)
・輸入総額 7億6,874万ポンド
(植民地から 1億9,152万ポンド、外国から 5億5,722万 ポンド)
・輸出総額 6億3,482万ポンド
(植民地向け 2億0,892万ポンド、外国向け 4億2,590万ポンド)
・貿易収支 1億3,392万ポンド(赤字)(1924~1929年の平均)
・輸入総額 12億4,570万ポンド
(植民地から 3億8,037万ポンド、外国から 8億6,533万ポンド)
・輸出総額 8億6,030万ポンド
(植民地向け 3億5,209万ポンド、外国向け 5億0,821万ポンド)
・貿易収支 3億8,540万ポンド(赤字)(1931年)
・輸入総額 8億6,125万ポンド
(植民地から 2億4,712万ポンド、外国から 6億1,484万ポンド)
・輸出総額 4億5,449万ポンド
(植民地向け 1億8,674万ポンド、外国向け 2億6,715万ポンド)
・貿易収支 4億0,676万ポンド(赤字)
○イギリスとアメリカの金保有量
・1921年・・・アメリカの金保有量はイギリスの3倍
・1932年・・・アメリカの金保有量はイギリスの6倍
そして1932年のオタワ会議以降、自由貿易に終わりを告げ、イギリスはスターリングブロックの形成に踏み切ったのである。
このような経緯を見てみると、スターリングブロックを敷いたイギリスの本意は、保有する金のこれ以上の流出を阻止することと、ポンド衰退を阻止する為の通貨圏確保(基軸通貨としての地位の維持)ではないだろうか。
若しくは、貿易決済にポンドが使われる限り、(金本位制を離脱したが故に)金保有量の大小は問題にならないからとも考えられる。
イギリスがブロック経済に踏み切って以降、ブロック外の諸国との対立は激化し、これに対抗して、別のブロック経済圏が次々と形成されていった。
帝国主義下での自由貿易とは、強い工業国が貿易により利益を得る為の「強者の論理」でしかなく、その相対優位性を失ったがために保護主義に転換するという身勝手な論理が、ブロック経済が第2次世界大戦の引き金となったといわれる要因ではないだろうか。
- by minezo at 09:52 in 07.新・世界秩序とは?

コメント
結局、一国がブロック経済化を進めると次々と他の国で同じことが起こり、挙句の果てには、弱小国は、どうしようもなくなり、外に打って出る(戦争)事しか無くなるという構図なんでしょうか?そういう意味では、当時の日本は、列強国にうまく誘導されたということなのでしょうね。
shirohanaさん コメントありがとうございます。
侵略戦争で植民地を確保する事によって、自国産業の発展をもくろむ帝国主義の時代のブロック経済だったから、そうならざるを得なかったということではないかと思います。
日本も帝国主義の時代ですから、追い込まれた時の選択肢は戦争しかなかったということではないでしょうか。