2009年11月06日
『これからの消費はどうなる?』6 ~消費や遊びより「仕事!」~

先週は「リサイクル」に潜む欺瞞性を明らかにした上で、変わりつつある消費スタイルを紹介しましたが、今回は、これからの充足源は「消費」や「遊び」ではなく、「仕事」に見い出せるのではないか
という認識を紹介します。
(上記画像は、バブル期の仕事観を示す一事例(リクルートさんのCM「ヤリガイ」です)
るいネット「遊びより仕事」より
>どこから見ても、仕事そのものが大切なわけではなく、あるのは仕事・遊びを通して、そのようなライフスタイルを実現し他人から羨ましがられることだけである。そのための金儲けであり、その稼ぎ方もかっこよくなければならないという意識である。私権闘争の目的の位置にあった解脱欠乏を満たすために、手段は選べなかった時代から、私権闘争の手段そのものも、相対優位の評価の対象にする時代になったということではないか思う。(るいネット「やりがい志向は相対優位の自我闘争では」より)1970年代に貧困が消滅し、世の中に「やりがい志向」が現れると、「遊びより仕事」と言うと、無粋な人、金しか頭にない人と捉えられるようになってしまった。
またその当時は、「遊び」は「仕事」の対極にある物、極端に言えば仕事は「イヤイヤやる辛いもの」で「遊び」のために我慢してやるものとして捉えられていた側面もある。しかし、豊かさが実現され、「イヤイヤやる」ではなく「すすんでやる」無償のボランティア活動が市民権を得、さらに報酬が得られるNPOやNGOも新しい職業として選択肢に入ってきた、つまり無償でやる社会活動が有償の「すすんでやる」職業として可能性が開かれつつある。
さらに、フリーターの増加も遊び中心の生活をするためではなく、「すすんでやる」「喜んでやる楽しい」職業探しだとみることができる。
「仕事」の性質は時代とともに変化してきた。日本で、企業が最大の「仕事の場」となったのは、せいぜい、ここ2世代ほどのことに過ぎない。次の時代に、その状況が崩れても、それほど驚くような話ではないだろう。
NPO、NGO、フリーターなど、新しい仕事の形態が一般化することで、企業での仕事の性質も変わらざるを得ない。ただでさえ労働力人口が減少していくなかで、人材がフリーターや社会活動へと流れれば、既存の企業は事業を維持するための人材確保に苦労することが予想されるからだ。「仕事」は、「イヤイヤやる辛いもの」から、「喜んでやる楽しいもの」へと性格を変えていく。その結果、「仕事と遊び」、あるいは「生産と消費」という、本来対立していたはずの概念の境目が曖昧になる。
次代の「豊かさ」は、消費や遊びよりも、仕事から得られる喜びの拡大という形で実現するのではないだろうか。
「仕事は何の為にやるのか?」いわゆる“仕事観”を振り返ると、時代毎の状況変化に応じて、かなり変化してきたことが解ります。そして同時に、本シリーズのテーマである「消費」意識も変化し続けています。
物的豊かさを目標としていた貧困の時代は、何も考えずに次々と与えられる“三種の神器”を「消費」し続けていました。仕事は「消費」する為に行っていた、と云っても過言ではないかもしれません。
しかし、’70年豊かさが実現すると、「特に欲しいモノが無い」状態に移行した為、国の借金を市場に注ぎ込んで、ムリヤリ「消費」を煽り、その結果市場はバブル化しました。“仕事観”もそのような時代のムードの中 ’80年代はカッコイイ、カタカナ職業がもて囃され「ヤリガイ」という極めて曖昧な言葉も流行ったのです。
そして、’00年頃からバブルが世界中に拡がり、昨年秋のリーマンショックで弾き飛びました。世界中の「消費」が冷え込み、日本はもとより、かのアメリカでさえ『節約志向』が広がる時代となりました。
・・・この様な状況下で、いったい充足可能性はどこにあるのでしょうか?
>次代の「豊かさ」は、消費や遊びよりも、仕事から得られる喜びの拡大という形で実現するのではないだろうか。
現在は「人に喜ばれる仕事」「社会の役に立つ仕事」をしたい!という意識が既に定着しています。この様な意識こそ、これまでの市場拡大一辺倒の路線から、仕事や労働を解放し、消費スタイルを変えていく実現基盤なのだ!と捉えて良いのではないでしょうか
次回は
「一世代完結消費」から「多世代共有消費」
の可能性を探ります。
お楽しみに~~
- by saken at 23:49




コメント
我が家の愛ネコをみておもうのは、
食って、糞して、寝て、また食って・・・
と同じことの繰り返し。
しかし、愛ネコにはそこに何の疑問も
不満もない様子。
翻って人間も本来、食って、糞して、寝ての
繰り返しのみで十分な存在なはずで、
生きがいや生きる意味なんて考えるから
人類総精〇病にかかってしまったのでは?
と思ってしまいます。
しかし、こんな発言をする人間こそ
病院にいけといわれる世の中なんですがね(笑)
かつて消費で得た充足感というものを経験した幼少期。
それは、働くとこんなにすごい物が買えるんだ→お金ってすごい!→働いてお金を得るってすごい!!→親に感謝
という図式でした。
当然、そうして得た物は、大切に扱いました。
それらの物は、「仕事」の代償として家の中でも存在感がありました。
製品自体も重厚だった印象があります。
それだけに終わっていればよかったのに 比較的最近まで それは、少しかたちを変えて よりよい物(そう思っていた、思わされていただけなのだが)、新製品への目移り、購入、壊れていない物の買い替え、ちょっと無理した、でもさしたる目的もない家族での海外旅行(行ってきた、連れて行ったこと自体に目的があるような)等に変化してきたと思います。
でも その過程を経て今、消費では、本当の充足は、得られないと気付き始めた気風を感覚的にも感じています。
仕事に充足感を求める傾向にあることも ひしひしと感じていますが 若い世代は、家庭での仕事に充足感を求める傾向があるようにも思えます。
夫婦で働かないと今や子どもも持てない時代ですが 子どもを持たない夫婦が根強く増えてると言われてる中で 子どもを持つ選択をした夫婦は、仕事も家事も子育てもシェアして それも無理なく、楽しんでいるように思えます。
子育て中だから できないことも多い中、子育て中だから できることを楽しんでする、そんなことが上手いように思えます。
男性のゴミ出しも保育園の送り迎えも「やらされてる」のではなく主体的な感じにかわったように思います。
そんな変化も充足を求めてのことかと思います。
ひとりで負担感を強いられてきたように思えた子育ても こんな風に自然にシェアしてできれば充足できたのかもしれないと 子育てをしてきたものとして そういう潮流をつくれなかったことへ反省もしています。
男は仕事、女は家庭という役割分担がありましたが 女性が仕事をするというこは、家庭に差し支えない程度にという暗黙の圧力があったように思います。
今は、仕事も家庭もシェアへの自体に変わりつつあるのかもしれません。
同じ土俵を複数持っているということは、夫婦で共認関係をつくる上で よいことだと思います。
仕事と共に家庭も充足の場になりえるのではないでしょうか。