2010年05月03日
「市場の原理(価格格差の秘密)」-7「『レアもの』と評価欠乏
皆様いつも記事を読んでいただいてありがとうございます。
前回の「ダイヤモンドの幻想価格の維持が、殺戮を生んでいる」では
ダイヤモンドの価格がシステムの構築による幻想価値であるという
お話しをいたしました。
今回は、もう少し私たちの身近にある幻想価値としての「レアもの」について
調べてみました。
(バック)エルメス バーキン25 価格 3,570,000円
ムシキング 金色レアのタランドゥスツヤクワガタ
販売時は100円、現在は4,000円
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(1) 「レアもの」って何?
「レアもの」とは
・まれなもの、珍しいもの、希少品
限定品や入手困難な商品を示す。
今回はるいネットの投稿「「レアもの」と評価欠乏」 (リンク)から引用しました。
>この幻想共認(幻想への可能性収束)によって作り出された、 市場商品の価格と一般農産物の価格との価格格差こそ、 市場拡大のテコとも原動力ともなった市場の秘密の仕組みである。 (異国の食品や、無農薬の食品は、幻想共認の形成が可能であり、 だからこそ一定の市場化も可能なのである。)そうか、なるほど。市場の”ミソ”は「幻想共認」にあったわけだ
そういえば、この「幻想共認」が、見る見る膨らんでいく状況を
目のあたりにしたことがある。数年前の「(ハイテク)スニーカーブーム」がそれだ
(詳しい内容は、6249 スニーカーNW大作戦を参照して下さい)

(ヴィンテージコレクター)NIKE(ナイキ)ロードランナー
価格 1,280.000円(税込)送料込
現在でさえこんな高値のついたスニーカーが存在します。
一部でカリスマ的人気を誇っていた某DJ兼ファッションライターが、 雑誌で取り上げたのが契機となり、一気に値段が高騰した。 高くてもメーカー希望価格1万5千円程度のスニーカーが、 3ケ月の間に3万円、1年後には10万円を越す価格で店頭販売されていた。 人気のあるものや生産数の少ないもの、 すなわち「手に入れ難いもの」ほど値段は高騰した。 所謂「レアもの、プレミアもの」と呼ばれる品である。当時は、街頭のショップ、ファッション雑誌のほぼ100%がブームに巻き込まれ、
誰もが高騰した値段に疑問を持っていなかったように思う。
ショップのバイヤー(買い付けをする人達)は、
競ってアメリカやヨーロッパに飛び、安い値段で珍しいスニーカーを手に入れては、
日本で信じられない価格で販売し、僕たちは
「アメリカで買い付けてきたレアもの」「どこどこのメーカーがNIKEに作らせた別注もの」
などと言う言葉にコロっとだまされて、平気で大枚をはたいていたこのスニーカーの値段、興味のない人には
さっぱり理解できないものであるのは言うまでもなく、
高校生や中学生なんかが、親に必死で説得しても全然理解してもらえない
と言う話しをよく耳にした
今考えると当たり前だ、幻想なんだから。
シラフの人(幻想にかかってない人)から見れば、
幻想にかかってしまった人なんて、愚かものにしか見えない当然、幻想には限界があって、だんだん流通数が多くなってくると、
その価格に疑問が持たれだし、価格崩壊が起きた。
あっという間に、メーカー希望価格まで売値は落ち、
そこに留まらず、値段は落ちつづけた
最終的に10万以上したスニーカーは、1万以下の値段で売られていた
これも全て「幻想」ゆえの現象と言える。
一旦崩れた幻想は二度と人を惑わすことはできず、
「商品としてギリギリの線」まで落ちるこのスニーカーブームの後にも、いわゆる「レアもの」の
価格高騰は何度か起きているが、長続きしたことは一度もないこのように考えると、今の若者も、古代・中世の市場と何ら変わりないように思えるが、
少し理由が違うんじゃないかと僕は考えている
もちろん、一部にはドーパミン回路を中心とする快美幻想が根強く残っているとも思う、
しかし貧困の圧力が消滅した現代に生まれ育った若者世代が、
私権の強制圧力による抑圧からの解脱として、
(全面的に)快美幻想へ全面収束しているとは考えがたい。
そこには、もうひとつ秘密がありそうだそれは、「評価欠乏」ではないかと僕は思う。
今の世の中、物が溢れその価値が見え難い状況にある。
そういう中で、スニーカーなどのレアもの高騰は、
実にわかりやすい形でその価値を提示してくれる
当然、その価値は幻想によって捏造されたものだが、
たとえ幻想であっても、それだけ多くの人が共認している「価値」は
十分な指標と成りえるのだろう。
「それを持っているだけでカッコイイ」と思わせる(惑わせる)だけの力が
そこにはあるように感じてしまう上位身分階級が使用しているもこの「カッコイイ」と言う評価は、
性的なものでもあり、同時に(同性の)仲間からの評価指標でも在りえると思う。
例えば、大学時代の仲間内では、流行に流されるのではなく、
流行を「つかんでいる」=現代の潮流を見抜いている(?)ものは、
なんとなく皆の評価を集めていた。
極端に言うと、人々が求めているのはあくまで「多くの人が認める価値」なのであって、
商品そのものではないのかもしれない
(そういった意味では、「女と市場の関係」とあまり変わらない気がする。
この点はもっと追求が必要だろう)この評価欠乏と指標が、私的充足から足を出していない点は否めないが、
その対象が個人の自己満足の域ではなく、外に向いている点は注目できると思う。
問題なのは、いまだ商品=物質的価値の中でしか、
その指標を考えられない点にある(だからこそ、幻想に振り回される)
(2)現代の「レアもの」への原動力は何?どうして価格高騰が起こる?
レアだけでは価格高騰しないと考えられます。
レアであるということに評価が加わることで幻想価格になると思われます。
時代的なレアものの求められた方と評価の違いは以下のようになります。
1.市場の始まり(宮廷サロン)では基本的にレアものであることが持てはやされました。
(毛皮、宝石、装飾品(レース、ドレスなど)
宮廷サロンで見せびらかすことによる評価
貴族階級の金銭的優劣という評価
→私権の優劣を争う。
→最終的には性的充足を得る事が目的
2.市場拡大時代(産業革命)では手に届く範囲でのレアものが持てはやされました。
綿織物、毛織物、香辛料、工業製品
日本の明治時代のように、見るものすべて珍しいと思える時代だったと言えます。
身分序列は変わらないが、労働という代償と引き換えの限定的な自由を手に入れる。
→同列の身分内での金銭的な優劣を争う。私権的な競争。
→最終的には性的充足を得る(異性にもてる)ことが目的
(ちょっと前のバブル時代を想像すると分かりやすいかもしれません。)
3.現代では流行になったものの限定品、希少品が持てはやされました。
衣料品、ペット、ゲームソフト、キャラクター物
物があふれた時代になり、他の人と違う個性や流行を求めています。
身分序列(身分、お金の多寡、美人かブスか)上位の人間が使っているもの
=「高価、良い物」を自分も持っているという感覚が
重要最終的には性的充足を得る事が目的
という普遍的なものは変わらないと思われます。
しかし、「人収束」という現代の特徴的な潮流があり、
有名な人(影響力がある人)が良いと言っているものを持っている。
→多くの人の評価を得ているものを持っている。
→皆からの評価を得る。
という他の時代には無い評価共認があります。
「かっこいいね!」「優しいね!」10代男性が喜ぶ褒め言葉はどっち? (リンク)
アンケート結果は僅差で微妙ですが、「かっこいい!」は表面的な評価で
「優しい」は内面的な評価につながるそうです。
男性はどちらかというと前者が喜ばしいのかもしれません。
4.バブル崩壊以降
金融経済が崩壊し、消費することに慎重になり、商品では評価を得られなくなりました。
性に対しても執着しなくなり、代償としての専門的商品に向かっていきました。
いわゆる「おたく」市場の拡大です。
→彼らの中での知識の多さ、深さがあるほど評価が高い。
→局地的(ネットの中)での評価
しかし、性の代償であるがため、リアルを求め始める傾向もあります。
(メイドブーム、コスプレ、ラブプラスなどのゲーム)
ラブプラスのキャラクター
現在の時間に合わせたイベントがあり、ほっておくとキャラクターの機嫌が悪くなります。
わからない人から見ると、とてもめんどくさいゲームです。
(3) 「評価欠乏」が「認識」に向かうには?
例えば、四方さんが「『認識形成の場』にお金を使う様になれば、 大変面白いことになる。」と書かれているように、 これらの評価欠乏が物質的価値を超えて、認識に向かえば、 可能性は一気に開けると思うし、 ここ数年の外向収束⇒認識収束の高まりは、 その可能性が「幻想」でないことを証明している。
・物質的評価から認識形成の場にお金を使えるようになるにはどうすれば良いのでしょうか?
超国家・超市場論22 お金は、現実の必要度を測るモノサシ(リンク)
祭りであれ、集いであれ、認識形成サイトであれ、 何であれその場が、社会空間において物的な快美収束と 同等以上の収束力を持つとすれば、人々はその場にお金を使う。 逆に、社会的ないかなる活動or場であれ、そこまでの収束力を持ち得なければ、 人々はそこにはお金を使わない。 だから人々がそこにお金を使うか否かが、 その場or活動の収束力(≒必要度)を計るモノサシとなる。 つまり、お金は(決して認識の質を測るモノサシなのではなく)、 現実の必要度を測るモノサシとして機能するのである。
・またそれにはどのくらい期間がかかるのでしょうか?
超国家・超市場論30 実現の論理(リンク)
即ち、人々の最先端の認識欠乏に応える『認識形成の場』 (それは社会的な共認闘争の主体となる)は、 古い私権闘争の場=市場(と国家)の真っ只中に姿を現す。 おそらく初めは、そんな物(=認識形成サイト)が 商品にもなるとは、誰も思わないだろう。 だが、我々の現実認識(構造認識や状況認識)が正しければ、 人々の認識欠乏が顕在化するのは時間の問題である。 それは、はじめの答え(に近い認識)と 認識形成の場さえ与えられれば、一気に顕在化する。 そしていったん認識欠乏が顕在化するや否や、 それは最先端の欠乏となり、それに応える『認識形成の場』は 最先端の活力を生み出す溶鉱炉となる。 そして、人々の基底的な『判断の土俵』や『人数』や 『投稿資格』などの評価指標を媒介として、 お金をはじめとする私権闘争の一切をその場の下に収束させ、 全てを統合してゆく。これが、実現の論理である。
なんでや露店、ネットサロン、なんでや劇場に人々に注目されているのも
認識という形がないものにお金を使い始めているからなのでしょう。
まとめ
いろいろな商品が溢れている現代では個性や評価を求め、
レアものに走る傾向があることは事実であると思われます。
また、それらが生活に必要ないものが多く、どちらかというと
商品ではなく周りの評価を欲しいがために買っているという傾向もあります。
その評価をマスコミや市場を支配している人たちが決めていることに気づかずに
信じ込んでいると考えられます。
不況の今こそ、商品では「必要であるか。」ということを考え、
「みんなのために何ができるか」という認識に収束していくことが
これからの社会に必要なことだと考えられます。
長い記事を最後まで読んでいただいてありがとうございました。
- by warasi at 17:00 in 08.金融資本家の戦略

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