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   <title>金貸しは、国家を相手に金を貸す</title>
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   <updated>2012-05-16T18:15:58Z</updated>
   <subtitle>どうする？借金800兆。&apos;70年、貧困の消滅で、活力衰弱→市場縮小→財政赤字。市場の軟着陸は可能か？</subtitle>
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   <title>米国はどのように衰退してゆくのか？（１）～プロローグ～</title>
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   <published>2012-05-16T11:00:00Z</published>
   <updated>2012-05-16T18:15:58Z</updated>
   
   <summary>０８年世界金融危機以降、米国覇権の凋落は明らかになりました。米国債の暴落や民衆の暴動など、一気にカタストロフが起こることも予測されたましが、現在のところ、その崩壊は緩慢に進んでいるように見えます。 　 マスコミ報道も、ＴＰＰ問題や原発問題など日本との関係については流れてくるものの、米国自体の情勢は、大統領選の推移が時おり流れる程度で政治・経済的に大きなニュースはありません。少し前のティーパーティ運動やウォール街占拠も、その後の成り行きは殆んど聞こえてきません。 　 その一方で、ネット上では、米軍やＣＩＡの分裂、州の独立、旧支配階級の一斉逮捕など、驚くべき事態の急展開を伝える記事が増えています。米国内は一体どうなっているのか、状況が読みにくくなっています。 　 そこで、今回から始まる本シリーズで、衰退の途にある覇権国家アメリカを改めて扱ってみたいと思います。 　 　 アメリカという国の政治・経済・産業・大衆意識は現在、一体どのような状況にあるのか。そして、２０１２年の今年以降、どのような形で衰退してゆくのか。歴史も遡りながら追求してゆきます。 　 いつも応援ありがとうございます。 　 ...</summary>
   <author>
      <name>s.tanaka</name>
      
   </author>
         <category term="05.瓦解する基軸通貨" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="07.新・世界秩序とは？" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kane-kasi.com/blog/">
      <![CDATA[０８年世界金融危機以降、米国覇権の凋落は明らかになりました。米国債の暴落や民衆の暴動など、一気にカタストロフが起こることも予測されたましが、現在のところ、その崩壊は緩慢に進んでいるように見えます。
　
マスコミ報道も、ＴＰＰ問題や原発問題など日本との関係については流れてくるものの、米国自体の情勢は、大統領選の推移が時おり流れる程度で政治・経済的に大きなニュースはありません。少し前のティーパーティ運動やウォール街占拠も、その後の成り行きは殆んど聞こえてきません。
　
その一方で、ネット上では、米軍やＣＩＡの分裂、州の独立、旧支配階級の一斉逮捕など、驚くべき事態の急展開を伝える記事が増えています。米国内は一体どうなっているのか、状況が読みにくくなっています。
　
そこで、今回から始まる本シリーズで、<b>衰退の途にある覇権国家アメリカ</b>を改めて扱ってみたいと思います。

　
<center><img alt="USA.PNG" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/USA.PNG" width="460" height="368" /></center>
　

アメリカという国の政治・経済・産業・大衆意識は現在、一体どのような状況にあるのか。そして、２０１２年の今年以降、どのような形で衰退してゆくのか。歴史も遡りながら追求してゆきます。
　

いつも応援ありがとうございます。
<a href="http://blog.with2.net/link.php?1369420" title="人気ブログランキングへ" target="_blank"><img src="http://image.with2.net/img/banner/banner_14.gif" width="80" height="15" border="0" /></a>　<a href="http://economy.blogmura.com/" target="_blank" id="blogmura"><img src="http://economy.blogmura.com/img/economy80_15.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 経済ブログへ" /></a>
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      <![CDATA[<b>「アメリカ」</b>という国名の由来は、この地を新大陸だと主張した、15世紀のイタリア商人であり、大航海時代の探検家でもあったアメリゴ・ヴェスプッチ。15世紀にコロンブスによって発見され、フィレンツェのメディチ家に仕えたこの商人の名を受けた時から、米国という巨大人工国家の歴史は始まりました。
　

<center><img alt="1507map.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/1507map.jpg" width="480" height="268" /></center><center><span style="font-size:80%;">米大陸発見直後の世界地図(1507年)。東側のみ描かれている。</span></center>
　

そこから約400年強。金貸し支配の隆盛とともに世界覇権国家にのし上がった米国が衰退・崩壊してゆくとしたら、その衰退・崩壊のありようは、インディアンら先住民を駆逐して造り上げられた人工国家の歴史と無関係ではないように思います。
　

本シリーズでは、そうした視点ももちつつ、<b>国家体制</b>（軍・政党・州と連邦etc）、<b>金貸し支配</b>（金融史・諜報機関etc）、<b>生産基盤</b>（産業史・エネルギー・農業）、<b>外交関係（親米国・反米国・対露中イスラエルetc）</b>、<b>観念統合</b>（宗教・マスコミ・市民運動etc）などの切り口で、現在の状況から歴史的経緯を遡ることで、今後の推移を読み解いてゆきたいと思います。
　

まず次回は、過去～現在～未来を貫通して見てゆく視点を持つために、まず米国400年の通史を俯瞰的に整理してみたいと思います。]]>
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   <title>【戦国時代の権力需要と市場】～巧妙な観念力で勢力拡大してきた寺社～</title>
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   <published>2012-05-15T14:00:00Z</published>
   <updated>2012-05-17T07:36:25Z</updated>
   
   <summary>戦国時代の市場から日本の金融史を探求するシリーズ。前回までは鉄砲（武器）市場を切口に、武器商人による流通経路、市場拡大を扱いました。今日は鉄砲を扱った別勢力「寺社」について触れてみたいと思います。 　 前回までの記事はこちらから 金貸しの起源は堺にヒントがある！ 鉄砲伝来の背後にいた勢力　 　 　   ...</summary>
   <author>
      <name>tani</name>
      
   </author>
         <category term="02.日本の金貸したち" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[戦国時代の市場から日本の金融史を探求するシリーズ。前回までは鉄砲（武器）市場を切口に、武器商人による流通経路、市場拡大を扱いました。今日は鉄砲を扱った別勢力「寺社」について触れてみたいと思います。
　
前回までの記事はこちらから
<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/03/001834.html">金貸しの起源は堺にヒントがある！</a>
<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/04/001857.html">鉄砲伝来の背後にいた勢力</a>　
　
<a href="http://blog.with2.net/link.php?1369420" title="人気ブログランキングへ" target="_blank"><img src="http://image.with2.net/img/banner/banner_14.gif" width="80" height="15" border="0" /></a>　<a href="http://economy.blogmura.com/" target="_blank" id="blogmura"><img src="http://economy.blogmura.com/img/economy80_15.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 経済ブログへ" /></a>
  ]]>
      <![CDATA[時代は16世紀。織田信長は、新兵器＝鉄砲をいち早く導入します。<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84">長篠の戦い</a>では、3000丁の鉄砲を調達。単発鉄砲の弱点を補う３段打ちで、当時最強と言われた武田氏の騎馬隊を殲滅したとあります。これには諸説あるようですが、鉄砲がその後の戦を変えたのは、概ね事実のようです。
 
<img alt="%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84.jpg" width="400" height="319" />
長篠の戦い
　 
遡ること４年前、信長は、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1_(1571%E5%B9%B4)">比叡山延暦寺の焼き討ち</a>を行います。絶対不可侵であった寺社の、中心勢力を攻撃した、その神仏恐れぬ凶行が今日の注目点です。
　
<a href="http://ameblo.jp/oharan/entry-10035812984.html">信長と宗教</a>

<blockquote>当時の比叡山は単なる寺社ではなく、武装した僧兵がたむろす軍事拠点という一面も持っていた。さらにそういった僧兵達は女も抱けば不浄な物を喰らうという、荒んだ生活を続けていたのである。さらに武力と権威を盾に様々な利権を手にしており、統治者としては頭の痛い存在であった。

そんな比叡山が信長の宿敵である浅井･朝倉を匿い、信長の警告も聞かずに 「アンチ織田」 的な態度を取り続けたため、信長は極端な制裁手段に出ざるを得なくなった。だから信長は比叡山に対して何度か警告を発し、それでもダメだと悟ったからこそ実力行使に出たのである。

当時の比叡山は、宗教の笠を被った戦国大名と言っても差し支えないほどの兵力を持っていた。これは比叡山に限ったことではなく、比叡山＠天台宗も、本願寺＠浄土真宗も、法華宗も、みんなそんじょそこらの大名じゃ手出しできないほどの軍事力があったのである。早い話が、この当時の寺社は宗教団体とヤクザが合体したような存在だったのだ。</blockquote>
　
戦国の表舞台に、出てくることが少ない寺社勢力ですが、戦国武将と同等の力を持っていたとは驚きです。また寺社町には鉄砲鍛冶屋があり武装化。さらに鉄砲を所有するに留まらず、多くの武将に販売も行っていたようです。言わば武器商社としての顔を持つ寺社ですが、その力は、どのようなものだったのでしょうか。
　
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=263429">寺社とは何か？　中世の寺社勢力</a>

<blockquote>中世まで遡っていくと、現代の宗教法人とは全く違った「寺」が見えてきます。

寺社は、寺社都市を中心とした、経済、政治の支配者で有り、同時に金融支配者（＝高利貸し）でもあり、法執行権も持っていた。朝廷からの庇護、武士からの宗教的な畏怖を受けていたので、時代の特権階級でもあった。意表的な物では、興福寺、比叡山などは、自治都市堺などと並ぶ、都市勢力をなしていた。

１．武力
鎌倉幕府倒幕時に、後醍醐天皇らは熊野・高野山・叡山に出兵を要請した。この時の功績の恩賞として、叡山は若狭守護職が与えられている。特に、叡山はただの武装集団では無く、戦場において槽達の手柄を記録、報告、審査して論功行賞を行う軍奉行を備えた武士団の様な性格を持っていた。

実践的にも、中世初期から、寺社同士の決戦はいくつも行われてきて、武士群、同様に数千人規模での戦闘が行われていた。興福寺ＶＳ延暦寺の興福寺からの果たし状は文書が残っている。

２．技術力
中世最初の山城建設は叡山。城壁、堀、東西の塔を持ち、「城郭」を形成している。（因みに「城郭」は仏教用語）同様に、根来寺（和歌山県岩出市）、平泉寺（福井県勝山市）等も強大な軍事力とともに、高度な石塁施設を築造しており、織豊政権より先行している。

３．観念
鎌倉時代末期、比叡山僧光宗が「渓嵐拾葉集」という本で、仏教以外に、武術、医学・土木・農業などの俗学を学んだと語ったように、中世において寺院は、先進文明、先進文化を生産し続ける場であった。ルイス・フロイスは、当時、叡山を「日本の最高の大学」とみている。対して、鎌倉時代、漢字を書ける武士は少なく、武士の文書は平仮名で書かれていた。

４．市場
中世の都市の多くは、寺社建築（ある意味摩天楼）を中心に、商工業・住宅地が配され、その外側に貧困民が集まる「寺社境内」が囲んでいた。戦国時代の一向宗・日蓮宗寺院の「寺内町」が有名だが、平安時代から、京・太宰府・鎌倉だけで無く、南都北嶺、東寺、醍醐寺、石清水八幡宮寺、四天王寺など。無数に存在していた。

この「境内都市」は、油屋、紺屋、酒屋、武器屋が建ち並び市場を形成し、金融業者の土倉・蔵が建ち並ぶ金融街でもあり、法体職人が集住する一大工業都市でも有った。

５．領主
寺院は、荘園領主としての性格も持ち合わせていた。所謂、寺社領荘園。守護として領地を管理し、年貢を集め、警察権、裁判権、徴兵権を行使していた。加えて、武士団同様に領地拡大に励み、戦闘後の敗者領地を「寺社で無ければ、祟りを納めきれない」などと、宗教的な正論も利用していたので質が悪い。鉄砲に支えられた強大な軍事力を持つに至った、根来寺は、和泉守護細川元有、幕府有力者三好実休を滅ぼし、戦国大名にまでなっている。</blockquote>
　
<span style="color:#000080;"><strong>寺社は、支配階級からの寄付により、生産しなくとも収入を得られる地位を確立。それを足掛かりに、大衆洗脳組織として発達。やがて意にそぐわない国人（天皇や武士階級）に圧力をかけることもできる力を得ていきます。また貴賤問わない疫病や災害からは、祟りを理由にお布施を得ることもできました。</strong></span>　
　
<span style="color:#ff3300;"><strong>持てる観念力を武器に、資本力、武力と、勢力を拡大したきたのが寺社勢力。寺社とは、観念力を持つ大学、マスコミであり、資本力を持つ財閥、商社であり、武力を持つ軍隊でもあったようです。</strong></span>
　
その中心に存在したのが比叡山延暦寺。宗教弾圧とも取れる行動を起こした信長ですが、実体は、巨大な寺社の力が信長の野望（日本統一）にとって抵抗勢力になったから。ということのようです。
　
社会が混乱し、不安になるほど儲かる坊主。寺社の歴史は、金貸しの観点からも、見直していく必要がありそうです。]]>
   </content>
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   <title>『日本国債暴落の可能性は？』国債発行と流通の仕組み：基礎知識の整理②</title>
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   <published>2012-05-14T11:49:21Z</published>
   <updated>2012-05-17T14:16:56Z</updated>
   
   <summary> 前回は、国債発行の歴史と直近の発行残高（国の借金1000兆の実態）について整理しました。 今回は、前々回の国債って何？に引き続き「国債発行と流通の仕組みについて」の基礎知識について整理してみたいと思います。順番が前後しますが、ご容赦下さい。宜しくお願いします。 その前に、応援宜しくお願いします。             ...</summary>
   <author>
      <name>orisay2</name>
      
   </author>
         <category term="03.国の借金どうなる？" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kane-kasi.com/blog/">
      <![CDATA[<img alt="%E5%9B%BD%E5%82%B5%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg" src="http://www.kane-kasi.com/blog/img2011/%E5%9B%BD%E5%82%B5%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg" width="350" height="237" />

<span style="color:#009933;">前回は、国債発行の歴史と直近の発行残高（国の借金1000兆の実態）について整理しました。
今回は、前々回の国債って何？に引き続き「国債発行と流通の仕組みについて」の基礎知識について整理してみたいと思います。順番が前後しますが、ご容赦下さい。宜しくお願いします。

その前に、応援宜しくお願いします。</span> 
 <a href="http://blog.with2.net/link.php?1369420" title="人気ブログランキングへ" target="_blank"><img src="http://image.with2.net/img/banner/banner_14.gif" width="80" height="15" border="0" /></a> 
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      <![CDATA[■国債はどうやって売買されているのでしょうか？【<a href="http://www.ifinance.ne.jp/learn/bond/bdt_2.htm">リンク</a>】

<blockquote><u>日本の国債は、まず銀行・証券会社などの金融機関が日本銀行から国債を購入し、その後、機関投資家や個人に向けて販売されるしくみになっています。</u>（日本銀行は、国債を新発行する際は、入札制度をとっています。）

<strong>機関投資家</strong>：個人ではなく企業体で投資を行っている大口の投資家を指す。一般投資家と異なり、動かす金額も大きく、金融市場に占める存在感は常に大きい。金融規制法上も、関連する規制が緩和されていることが多い。【<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E9%96%A2%E6%8A%95%E8%B3%87%E5%AE%B6">リンク</a>】

日本銀行は、国債に関する現金の受払などを行っています。そのため、国債を購入した資金や満期時の償還金の取扱はすべて日本銀行を介し、政府の口座から出し入れされています。
<u>現在は一個人が日本銀行の口座を開設・所有することはできないため、</u>銀行や証券会社などの金融機関を通じて国債を購入したり、償還を受け取ることになっています。</blockquote>

■国債に係わる入札参加者一覧【<a href="http://www.mof.go.jp/jgbs/topics/bond/bidders/index.htm">リンク</a>】（財務省のＨＰより）

<blockquote><span style="color:#ff3300;"><u>最近の国債の入札は外資系が積極的と言われ大手の三大証券とともに高いシェアを占めている。特に超長期国債などの売買などを積極的に実施している外資系証券などもある。</span></u>また銀行系証券もシェアが高い。
※証券会社や銀行などは<strong>「業者」</strong>と呼ばれている。

<u>この業者と取引しているのがいわゆる投資家である。生命保険会社や都市銀行そして年金運用者などの投資家が国債を大量に保有している。</u>【<a href="http://fp.st23.arena.ne.jp/jgb.htm">リンク</a>】</blockquote>

■国債の決済方法【<a href="http://blogos.com/article/31008/">リンク</a>】

<blockquote>国債の決済は1988年に稼働した<span style="color:#ff3300;">「日銀ネット」</span>を通じて行われている。金融機関同士が行う資金取引の決済や国債など証券取引の代金の決済や、民間決済システムの最終的な決済に、日銀の当座預金での振替が利用されている。
～中略～
日銀はこうした資金や国債の決済が安全かつ効率的に行われるようにするために、<u>コンピュータ・ネットワークシステム</u>を構築し、これが日銀ネットと呼ばれる日銀金融ネットワークシステムである。</blockquote>

■国債市場の種類について【<a href="http://www.ifinance.ne.jp/learn/bond/bdt_2.htm">リンク</a>】

<blockquote>一般に債券市場は、以下のような種類（区分）で認識することが多いようです。
①発行市場と流通市場

－発行市場：新発債が発行される場

－流通市場：既発債が取引される場

②現物市場と先物市場

－現物市場：債券現物が取引される場

－先物市場：債券先物が取引される場

③取引所市場と店頭市場

－取引所市場：取引所を通して取引される場（国債や転換社債など一部）

－店頭市場：相対で取引される場（ほとんどの債券が対象）

④国内市場と海外市場

－国内市場：日本で発行される債券の取引が中心

　（日本でも米国債の取引は可能）

－海外市場：当該国で発行される債券の取引が中心

　（海外でも日本国債の取引は可能）</blockquote>

では、上記市場の中で、特に注目すべき<strong>国債の先物市場</strong>について整理してみます。

■先物市場とは？【<a href="http://www.findai.com/kouza/2001fut.html">リンク</a>】
<blockquote>現物市場では、市場価格で商品や外貨が即金で取引され、ただちに引き渡されるのに対し、先物取引が行われる市場を言います。

<span style="color:#000080;">１，先物取引とは？</span>
先物取引とは、将来の一定の期日に、今の時点で取り決めた価格で特定の商品を取引する契約のことです。簡単にいえば予約取引のことで、特に取引所※で行われる予約取引のことをいいます。

※取引所：取引所取引（上場取引）を扱う証券取引所【<a href="http://www.findai.com/kouza/412stock.html">リンク</a>】【<a href="http://www.koku-sai.com/article/tesu.html">リンク</a>】

証券取引所は、現在全国に5ヵ所ありますが、国債は東京証券取引所などの3つの証券取引所に上場しています。証券取引所で行われる取引を通じて、国債の価格が決まります。一方で、国債の売買の大半は証券会社の店頭で行われていて、（債券取引の99％は店頭市場で取引）実際に証券取引所で行われている取引はごくわずかです。


平成11年度の公社債の店頭取引売買高は、約3837兆円です。債券の流通市場規模は、約3900兆円と推定されます。取引されている債券の95％を国債が占めています。【<a href="http://www.findai.com/kouza/307bond.html">リンク</a>】

<span style="color:#000080;">２．先物取引の特徴</span>
先物取引には、（１）商品が定型化されている　（２）差金決済が中心である　（３）取引所取引である　（４）証拠金制度を導入している　という４つの特徴があります。

（１）商品が定型化されている
商品の定型化とは、売買単位や受渡期日などの取引条件が規格化されたものをいいます。この定型化した商品を標準物（ひょうじゅんもの）と呼んでいます。

（２）差金決済が中心である
先物取引は、<u>取引最終日までに、転売・買戻しと呼ばれる反対売買</u>を行い、差金の授受によって決済します。商品を受け渡す代わりに、反対取引をして生じる損益（損失と利益）だけを受け渡します。これを差金決済といいます。

（３）取引所取引である
取引所で行われる取引のことを取引所取引といいます。取引所取引の特徴は、商品が定型化されていて、限月（げんげつ：期限日のこと）まで、<u>いつでも反対売買を行えることにあります</u>。

取引所取引では、取引の注文を一定の場所に集めるため、取引が成立しやすくなります。市場の流動性が確保されています。個人的な契約では、不当に高い価格で取引が成立してしまうことがありますが、取引所では多くの人達が取引に参加するため、一般に妥当と考えられる公正価格で取引することができます。

<span style="color:#ff3300;">（４）証拠金制度</span>
証拠金制度は、取引所に一定の証拠金を差し入れるだけで売買を行えるという制度です。先物取引の履行（りこう）の安全性を図るために導入しています。 
<u>証拠金は、予約金額の３％前後用意すれば、取引することができます。少ない金額で大きな取引が行えます。</u>

<strong>３．国債先物の種類</strong>
国債先物とは、国債を対象とした先物のことです。償還期限を
5年とした「中期国債先物」、
10年とした「長期国債先物」、
20年とした「超長期国債先物」
といった3銘柄が、東京証券取引所に上場されています。主な参加者は機関投資家や証券会社。そのため、取引高、流動性ともに非常に高いという特徴があります。
また、<u>先物であるため、空売りを比較的行いやすく</u>、参加者の多い、厚みのある市場が形成されています。</blockquote>

■では、先物取引の空売りの具体的な仕組みを八百屋のみかんを例に説明します。
【<a href="http://12suc.com/pc/1_2.html">リンク</a>】

<blockquote><img alt="%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%93%E7%A9%BA%E5%A3%B2%E3%82%8A2.gif" src="http://www.kane-kasi.com/blog/img2011/%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%93%E7%A9%BA%E5%A3%B2%E3%82%8A2.gif" width="400" height="217" />

図の例として八百屋の例がありますが、最初に10個×100円で1000円で売り、後日10個×90円で900円で買い戻しています。
すると差額として100円の利益が発生します。
（通常の八百屋ではこんな取引が発生しませんが・・・あくまで例です）

　　　　<img alt="karauri.gif" src="http://www.kane-kasi.com/blog/img2011/karauri.gif" width="250" height="223" />

空売り最大のメリットは、<u>株価が下落する局面であっても利益を得られるという</u>点です。
上図のように、株価が高い時（相場の山）、信用取引以外の取引では、投資に参加しないという選択しかありません。
しかし、空売りができる場合には、相場の山で空売りをして下がってきたところで買い戻すという戦略を取ることができ、取引の選択肢が広がっていきます。【<a href="http://www.margin-trade.com/knowledge/word_karauri.html">リンク</a>】</blockquote>

株を例に挙げましたが、国債もこのような先物取引の対象になっているのです。元手がなくても、<u>証拠金さえ積めば、もうけの可能性があるシステム</u>なのです。


■では、最近2012年3月の国債売買の契約高さを見て見ましょう。

<img alt="%E2%96%A0%E6%8A%95%E8%B3%87%E9%83%A8%E9%96%80%E5%88%A5%E5%9B%BD%E5%82%B5%E5%85%88%E7%89%A9%E5%8F%96%E5%BC%95%E7%8A%B6%E6%B3%81_%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8_1.jpg" src="http://www.kane-kasi.com/blog/img2011/%E2%96%A0%E6%8A%95%E8%B3%87%E9%83%A8%E9%96%80%E5%88%A5%E5%9B%BD%E5%82%B5%E5%85%88%E7%89%A9%E5%8F%96%E5%BC%95%E7%8A%B6%E6%B3%81_%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8_1.jpg" width="600" height="480" />

このように、<span style="color:#FFAE35;">ここ一ヶ月の先物オプションは先物は、外国人投資家によって行われている実態が浮かび上がります。</span>
■国債取引における高速システムについての導入についての記事を紹介します。
【<a href="http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2012/01/03/6276013">リンク</a>】
<blockquote>
●「市場対国家」の主戦場はいよいよ日本へ？ 高速取引システムがもたらす日本国債急落リスク ―
ヘッジファンドを招き寄せる国債先物の新システム（2012/01/10 週刊エコノミスト）

＞東京証券取引所は１１月２１日に日本国債の先物取引を新取引システム、「Ｔｄｅｘ＋システム」に移行した。Ｔｄｅｘ＋は、デリバティブ取引所のＮＹＳＥライフが開発したシステムをベースとした。世界最高水準の処理性能を誇り、従来と比べて、注文処理量、注文処理速度が２０倍以上にもなる。高速性も備え、注文応答時間は０・００５秒となった

＞しかし、<span style="color:#ff3300;">新システム導入で起きたのが、国債先物価格の急落だ。１日にせいぜい２０銭程度しか変動しなかったものが、稼働日以降のわずか４日間で最大１円６０銭も急落したのだ。</span>

Ｔｄｅｘ＋のベースはニューヨーク証券取引所（ＮＹＳＥ）などを運営するＮＹＳＥユーロネクストグループの取引システム。<span style="color:#ff3300;"><u>東証は将来、日米欧の証券会社が１台の売買端末で東証にもＮＹＳＥユーロネクスト傘下の証取にも注文を出せるようにしたい考えだ。そうなれば、欧米市場と同時進行の日本の夜間取引に海外マネーが大挙流入し、国債先物市場における外国人の存在感が今以上に高まる公算が大きい。</u></span></blockquote>

■2013年1月に「日本取引所」誕生＝東証・大証統合発表―上場企業時価総額が世界２位の記事を紹介します。【<a href="http://www.asahi.com/business/jiji/JJT201111220045.html">リンク</a>】
<blockquote><span style="color:#6666ff;">東京証券取引所と大阪証券取引所は22日、2013年1月をめどに持ち株会社「日本取引所グループ」を設立し、経営統合することで合意したと正式発表した。</span>～中略～東証と大証に上場する企業の時価総額（9月末）は合計3.7兆ドル（約285兆円）に達し、米ニューヨーク証券取引所に次ぐ、世界第2位の規模となる。
～中略～
東証は現物株式の取引で国内シェア9割を誇り、大証はデリバティブ（金融派生商品）に強みを持つ。統合により、規模拡大を図るとともにシステム投資などで効率化を進め、激化する国際競争で生き残りを目指す。</blockquote>

効率化という理由は本当でしょうか？高速取引システムの導入と合わせて考えると、どうも「国際競争力で生き残りを目指す」だけではすまないような気配を感じます。


■まとめ
このように、日本国債は、現在も、どこの国の人たちでもどこの国からでも売り買いができるという事になります。
今年３月、外国人投資家を中心に先物の短期国債の売買が増え、国債市場を席巻しています。
今後、高速取引システムの導入や2013年の東京証券取引所と大阪証券取引所の経営統合等非常に不可思議な状況がみてとれます。


<u>ある日の朝、日本の証券取引所が業務開始となったとたん、日本の投資家たちは唖然となった。
外国機関投資家や外国人投資家達が高速取引システムで真夜中に日本国債を一斉に全て売り払ってしまった。・・・</u>


このような状況が突然やってくるかもしれないのです。

外国機関投資家や外国人投資家達に都合の良いシステムで、じわじわと日本の国債市場が牛耳られていく戦略にはまってはいないのでしょうか？

]]>
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   <title>近代市場の成立過程（５）～ルネサンス：金貸しによる恋愛観念の布教</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kane-kasi.com/blog/2012/05/001866.html" />
   <id>tag:www.kane-kasi.com,2012:/blog//1.1866</id>
   
   <published>2012-05-13T12:00:00Z</published>
   <updated>2012-05-17T21:21:49Z</updated>
   
   <summary>（２）近代市場の誕生前夜・富豪の台頭 （３）ルネサンスの先駆者ダンテが金貸したちにもたらしたものは… （４）メディチ家はなぜ栄えたか？ 　 15世紀にフィレンツエで最盛期を迎えたメディチ家は、現代も名の残る多くの芸術家のパトロンとなり、イタリア・ルネサンスの芸術文化を大きく開花させてゆきます。ルネサンスはやがて、フランスやイギリスへと広がってゆきます。 　 なぜ、この時代に、フィレンツェを皮切りにルネサンス文化が起こったのか、その必然性とはなんだったのでしょうか。そして、これらの動きは、近代市場が形成されていく上で、どのような意識変化をヨーロッパの人々にもたらしたのでしょうか。 　 今回は、私たちにも馴染みのあるルネサンス芸術と近代市場の関係について考えます。 　 いつも応援ありがとうございます。   ...</summary>
   <author>
      <name>s.tanaka</name>
      
   </author>
         <category term="08.金融資本家の戦略" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kane-kasi.com/blog/">
      <![CDATA[<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/04/001859.html" >（２）近代市場の誕生前夜・富豪の台頭</a>
<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/05/001858.html" >（３）ルネサンスの先駆者ダンテが金貸したちにもたらしたものは…</a>
<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/05/001862.html" >（４）メディチ家はなぜ栄えたか？</a>
　
15世紀にフィレンツエで最盛期を迎えたメディチ家は、現代も名の残る多くの芸術家のパトロンとなり、イタリア・ルネサンスの芸術文化を大きく開花させてゆきます。ルネサンスはやがて、フランスやイギリスへと広がってゆきます。
　

なぜ、この時代に、フィレンツェを皮切りにルネサンス文化が起こったのか、その必然性とはなんだったのでしょうか。そして、これらの動きは、近代市場が形成されていく上で、どのような意識変化をヨーロッパの人々にもたらしたのでしょうか。
　

今回は、私たちにも馴染みのあるルネサンス芸術と近代市場の関係について考えます。

<center><img alt="Mona_Lisa.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/Mona_Lisa-thumb.jpg" width="200" height="298" /></center>
　

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<br>]]>
      <![CDATA[<span style="font-size:120%;"><b>●なぜ商人は芸術家たちのパトロンとなったか</b></span>
前回紹介したメディチ家をはじめ、ルネサンス芸術の勃興は、フィレンツェで名を成した富豪たちや、アルテと呼ばれる商人組合のパトロネージによるものでした。
　

イタリア・ルネサンスの主要なパトロン（画像は<a href="http://ameblo.jp/pheme-japan/entry-10619759549.html" >こちら</a>他より）左から
ロレンツォ・イル・マニーフィコ（ロレンツォ・デ・メディチ　1449 - 1492）、
ローマ教皇ユリウス2世（本名ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ 1443-1513）、
ローマ教皇レオ10世（本名ジョヴァンニ・デ・メディチ 1472-1521）
<center><img alt="Lorenzo.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/Lorenzo.jpg" width="100" height="126.5" /> <img alt="Julius_II.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/Julius_II.jpg" width="93" height="126.5" /> <img alt="Leo_X.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/Leo_X.jpg" width="98" height="126.5" /></center>
この３人（うち２人はメディチ家）だけで、ルネサンス３大天才と呼ばれるダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの面倒を見ています（上の絵のうち右２つはラファエロが書いた肖像画）。なぜ彼らは、芸術家を保護し活躍の場を与えたのでしょう。
　
　
一つは、富の誇示です。<blockquote>これは個人に関してというよりは、同業者組合同士にみられる傾向です。事実、聖堂の壁面に飾る聖人の像の高さを数センチ単位で競ったりしていました。<a href="http://www.geocities.co.jp/HiTeens-Panda/2413/bijuturonn1.htm"  target="_blank">こちら</a>より</blockquote>
もう一つは、政治的な目的です。前回記事にあったように、フィレンツェでは共和制が敷かれていたため、政治権力を獲得する上で市民の支持をそれなりに集める必要がありました。そのための公的な建築物や壁画、広場などに資金を提供して、フィレンツェの街をつくっていったのです。フィレンツェは商人と金貸しの街なので、ここでいう「市民」とは、主に金貸しや商人、その組合ということになります。
<center><img alt="campidoglio.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/campidoglio.jpg" width="350" height="262" /></center><center><span style="font-size:80%;">ミケランジェロの設計したローマ・カンピドリオ広場</span></center><blockquote>「フィレンツェ的コムーネの｢自由｣の中身は｢独立｣と｢共和｣であったが、いずれも市民の参政化を要請していた。この場合、｢市民｣とは今日のそれではない。フィレンツェのコムーネ的共和主義の思想は、｢資格ある市民｣に支えられる共和政治の実現であり、封建領主、聖職者、下請け労働者とは区分される｢主人持ちでない自主独立の、いわば起業家｣市民によって担われる政府を理想としていた。なんとならば、｢資格ある市民｣こそが都市の意思決定に責任を負える立場にあるとされていたから。

　この住民の自治をモットーにした｢コムーネ｣の思想が、フランス革命の時代に移植され、｢コミューン｣となる。
<a href="http://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_philosopye_runessanse_tyuokuzen.htm"  target="_blank">れんだいこの人生学院</a>より</blockquote>
　

<span style="font-size:120%;"><b>●パトロン＝発注者であり、ルネサンス作品はパトロンのもの</b></span>

この時代のパトロンは、現代の感覚とは少し違っています。芸術家たちの作品が彼らの自由な創作物で、好事家のパトロンがこれを購入する形で支援するのではなく、パトロン＝クライアント（発注者）でした。彼らの発注与件に従って絵画や彫刻、建築を製作するのが、多くのルネサンス芸術家でした。世界的に有名なダ・ヴィンチの「最後の晩餐」にしても、大きさやテーマも含め、ミラノの名家からの注文で書かれたものです。
<center><img alt="da_vinch.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/da_vinch.jpg" width="400" height="204" /></center><center><span style="font-size:80%;">ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」</span></center>　
作品の発注には、絵画に描かれる人数、使われる材料や技術に対して細かく値段が決められ、契約が結ばれていたそうです。つまり、<span style="color:red;">ルネサンス芸術のテーマや表現は、芸術家自身のものではなく、主要にはパトロンの意識や欠乏を反映したもの</span>だと言えます。
　

ルネサンスの芸術家たちは、芸術家というより、パトロンたちの意識や思想を忠実かつ最高のレベルで表現する天才的職人だった、という方が近いでしょう。

　
では、当時のパトロン＝金貸したちの意識・思想とはなんだったのでしょう。
　

<span style="font-size:120%;"><b>●ルネサンスの思想～人文主義と恋愛観念</b></span>

イタリア・ルネサンスの一つの動きとして、コジモ・メディチが設立した<b>「プラトン・アカデミー」</b>という私的なサークルが知られています。
<blockquote>プラトン・アカデミーはフィチーノを中心に、ランディーノ、ポリツィアーノ、ピコら多くの人文主義者が集い、メディチ家のロレンツォも加わって、プラトンの対話篇さながらに愛や美を巡る知的な討論を行った。異教的な思想が育まれ、ボッティチェッリの「春」「ヴィーナスの誕生」もこれらの知的風土の中に生まれた作品である。
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC" target="_blank">ウィキペディア</a>より</blockquote>

<span style="color:red;">「人文主義者」</span>とは、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した<b>知識人</b>のこと。彼らもまた、ダ・ヴィンチやラファエロと同様、メディチ家にパトロネージを受けた人間たちです。従って、おそらく彼ら人文主義者たちも、彼ら自身が自由に思索・理論追求をするというよりも、パトロンの思念を知的に言語化・体系化する役割を担っていたのでしょう。ラファエロらがパトロンに仕える造形・美術の天才的職人であるのに対して、<span style="color:#red;">人文主義者はパトロンに仕える観念・言論の天才的職人だった</span>ということです。
　
　
<b>【ボッティチェリ『春』の解釈】</b>
プラトン・アカデミーでのパトロンと知識人の討論から生まれたとされるボッティチェリの「春」は、現代では次のような含意があると考えられています。　
　

<center><a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/botticeli2.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/botticeli2.html','popup','width=441,height=283,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/botticeli2-thumb.jpg" width="350" height="224" alt="" / border="0"></a></center>
ここには、中央のヴィーナスのほか、愛欲的な女神や禁欲的な女神が描かれていますが、いくら禁欲的な女神が拒否しても、西風（右）に吹かれたりキューピッドに射られて春が訪れてしまう、という表現しています、ということ。詳しくは、<a href="http://www.geocities.jp/timeway/kougi-57.html" target="_blank">るいネット</a>を参照。
　


<b>【シモネッタ・ヴェスプッチ】</b>
もう一つ、イタリア・ルネサンスの恋愛観念を象徴する存在が、フィレンツェ一の美女と言われたシモネッタ・ヴェスプッチという女性です。人妻でありながら、ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリーノの愛人であり、ロレンツォ自身も彼女に惹かれていたということ。そして、ボッティチェリ、ピエロ・ディ・コジモ、そして女嫌いと言われていたダ・ヴィンチまで含め、ルネサンスの名だたる芸術家たちがシモネッタをモデルに、あるいはその肖像画を描き、後世に残しています。
<center><img alt="Simonetta.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/Simonetta-thumb.jpg" width="100" height="133" /> <img alt="Simonetta2.gif" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/Simonetta2-thumb.gif" width="96.5" height="133" /><img alt="birth_of_venus.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/birth_of_venus-thumb.jpg" width="212" height="133" /></a>
</center><center><span style="font-size:80%;">ボッティチェリ(左)・ダ・ヴィンチ（中）による肖像画(右)「ヴィーナスの誕生」のモデルでもある</span></center>
　

シモネッタは23歳で肺結核にかかり夭折しますが、ロレンツォ・デ・メディチは、彼女の葬儀の様子をこのように語っています。
<blockquote>「フィレンツェ市民は驚愕に包まれていた。
何故なら、彼女の死顔の美しさは、生前のそれを超越していたからだ。
彼女を前にすれば、死もまた美しい・・・」</blockquote>

<hr size="3" color="#ffaaaa"/><br />

ルネサンスとは、莫大な富を蓄えた商人・金貸しが、その資金によって何万人に一人の天才を集め、恋愛観念とそれを正当化する思想を欧州全域に広めた時代だと言えます。
　

これは、まず、芸術家・知識人・建築家といった知的エリート（茶坊主）という存在にお墨付きを与えました。そして、彼らにつくらせたルネサンス作品を通じて、<span style="color:red;">快美欠乏が欧州の人間たちの間に広がり、性市場→商品市場をさらに拡大する原動力</span>となってゆきました。これが、羅針盤や印刷技術といった技術開発（※技術そのものは既に中国etcにあり、実用化したのがルネサンス）とあいまって、大航海時代に繋がったと考えられます。
　

さらに、ルネサンス芸術は教会美術を扱うなどいまだ力を持っていた教会勢力と共存を図りながらも、人文主義者らが構築した正当化の論理とセットになった異教的な作品や思想を世に送り出すことで、少しずつ<span style="color:red;">教会の思想的権威を弱体化</span>させていったのです。こちらは、数十年後に訪れる宗教改革の種を育んでゆきました。そしてこれらは全て、パトロン＝商人・金貸し勢力の力をさらに強めることに貢献したのです。
　

次回は、ダヴィンチとも親交を持ち、フィレンツェの王を目指したロレンツォ・デ・メディチに捧げた「君主論」の作者マキャベリと、その思想の影響を扱います。]]>
   </content>
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   <title>世界を操る支配者たち（１）～ロスチャイルド家</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kane-kasi.com/blog/2012/05/001861.html" />
   <id>tag:www.financial-j.com,2012:/blog//1.1861</id>
   
   <published>2012-05-10T14:08:25Z</published>
   <updated>2012-05-16T18:18:31Z</updated>
   
   <summary> 世界を操る支配者たち　～プロローグ～ 歴史を左右するような大きな事件や出来事は、偶然に起きるのではなく、支配的な力を持った勢力が意図的に起こしたものが多く存在します。その支配的な力を持つ勢力とは、どんな人物達なのか？をまとめていきます☆ 『世界を操る支配者たち』シリーズ第一弾は、世界的な資本家として有名な「ロスチャイルド家」に焦点をあててみたいと思います☆ いつも応援ありがとうございます！ 　 ...</summary>
   <author>
      <name>mihori</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kane-kasi.com/blog/">
      <![CDATA[<center><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/76873b19-thumb.jpg" width="350" height="262" alt="" /></center>
<br>
<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/04/001854.html" target="_blank">世界を操る支配者たち　～プロローグ～</a><br>
歴史を左右するような大きな事件や出来事は、偶然に起きるのではなく、支配的な力を持った勢力が意図的に起こしたものが多く存在します。その支配的な力を持つ勢力とは、どんな人物達なのか？をまとめていきます☆<br><br>
『世界を操る支配者たち』シリーズ第一弾は、世界的な資本家として有名な<span style="color:#ff3300;"><strong>「ロスチャイルド家」</strong></span>に焦点をあててみたいと思います☆<br><br>
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<br>]]>
      <![CDATA[<span style="font-size:120%;"><strong>●ロスチャイルドの傘下企業</strong></span>
　
ロスチャイルドと言っても、ピンとこない人がいるかもしれませんが、実は意外と身近な存在なんです！
ロスチャイルドの傘下企業を調べてみると、銀行はもちろんコカコーラやリプトン、ヴィトンなど馴染みのある企業が沢山ありました！
<center><a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/rothkigyou.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/rothkigyou.html','popup','width=851,height=563,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/rothkigyou-thumb.gif" width="350" height="231" alt="" /></a></center>
では、ここまでの経済力をどうやって身につけたのでしょう？その経緯を見ていきたいと思います。
　
　
<span style="font-size:120%;"><strong>●ロスチャイルドの出自 :m261: </strong></span>
　
ロスチャイルド家の初代は、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド氏です。フランクフルト出身のアシュケナージ系<span style="color:#ff3300;"><strong>ユダヤ人</strong></span>。ラビ（＝ユダヤ教の指導者）を志しますが、両親が亡くなり学費が払えなくなってしまったため、1764年、オッペンハイム銀行で<strong><span style="color:#ff3300;">両替商</span></strong>を営みます。１８Ｃのユダヤ人は、姓もなく、土地所有も許されず、賤民扱いされていて、キリスト教倫理に背く職業の『金貸し』が主な仕事でした。そこで、古銭集めという共通の趣味から、ドイツの名門貴族ヘッセン家のウィルヘルム９世と出会い、一緒にビジネスを始めるようになります。
<blockquote>ヘッセン・カッセル領主ウィルヘルム九世（のちの選帝侯ウィルヘルム一世）は、米国の独立戦争を鎮圧するための傭兵を英国政府に借し出しており、そのレンタル料で個人としては当時ヨーロッパ最大の資産家になっていた。

マイヤー・アムシェルはオッペンハイム銀行に勤めていた頃、ヘッセン・カッセル伯爵に近い貴族エストルフ将軍と知り合い、ウィルヘルム九世の代理人となって、そのレンタル料を投資したり貸付けたりして運用した。

<center><img alt="maiyar.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/maiyar.jpg" width="88" height="112" /></center><center><span style="font-size:80%;">ロスチャイルド家初代マイヤー・アムシェル氏</span></center>

一方、マイヤーはヨーロッパ全土の郵便事業を独占していたトゥルン・タクシス伯一族との関係を深めていった。

タクシス伯一族はヘッセン・カッセル伯爵の内偵として、のちにロスチャイルド家の内偵として活躍。

重要文書を不法に開封し、中身を読んで伯爵に耳打ちしたり、命令に従って伯爵やマイヤーには有利に、その負債者には不利に働くよう、手紙を急送したり遅配したりして、その役目を果たした。

<span style="color:#ff3300;"><strong>マイヤーは、タクシス伯一族から得られる貴重な内偵情報のお陰で、競争相手の金貸したちをまんまと出し抜いていった。</strong></span>

1794年、フランス将軍オッシェに街が占拠されると、ウィルヘルムはすべての財産の管理をマイヤーに託し逃亡。

<span style="color:#ff3300;"><strong>このウィルヘルムの財産がロスチャイルド家の世界制覇に向けた“種銭”となった。</strong></span>

「<a href="http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20070308" target="_blank">日本人が知らない 恐るべき真実</a>」より引用</blockquote>
マイヤー・アムシェルは、ウィルヘルムの財産を元手にして、ヨーロッパに支店網を築き、彼の５人の息子がフランクフルト・ロンドン・パリ・ウィーン・ナポリの各支店を担当、相互に助け合いながら現在のロスチャイルドの基盤を築きました。

また、ロスチャイルドが英国金融界での地位を確固たるものにしたのが、<span style="color:#ff3300;"><strong>ワーテルローの戦い</strong></span>です。
<blockquote>ナポレオン・ボナパルトの最後の戦いとなった1815年の「ワーテルローの戦い」。ヨーロッパを支配しようと侵略戦争を続けた皇帝ナポレオン率いるフランス軍と、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍（ホーエンツォレルン家が支配する王国の軍隊）が対峙した天下分け目のこの戦争の戦況を入手しながら、ロンドン・ロスチャイルド商会のネイサンは「その時期」を狙っていました。

<center><img alt="waterurowar.bmp" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/waterurowar.bmp" width="264" height="191" /></center>

ワーテルローでナポレオンが勝てば、イギリスの国債は暴落して紙くずとなります。反対にウェリントン将軍が勝てばイギリス国債は暴騰します。つまり「どちらが勝ったか」という情報をいち早く入手できる者が有利なのです。

ロスチャイルド家は「ワーテルローの戦い」の勝敗を見届ける者を手配していたので、イギリス軍の使者よりも早くイギリスのネイサンのもとに「イギリス軍勝利」の連絡が届きました。伝書鳩を使ったのか、伝達用の馬と船を配置しておいたからできたのか不明ですが、当時のロスチャイルド家はドーバー海峡に自家用の快速船を何隻も運航させていたという記録が残っています。また、ドーバーとロンドンの間にロスチャイルド家専用の早馬を常備していたともいわれています。<span style="color:#ff3300;"><strong>そんな情報網によってネイサンはイギリスでただ一人、「イギリス軍勝利」の事実を知っていました。</strong></span>

ネイサンは、ただちにロンドン金融街シティの証券取引所に向かい、イギリス国債を売って出ました。ネイサンが売りに出たのを見て、「イギリス軍敗北」という情報が流れ、相場は大暴落しました。「大英帝国破滅の日が近い」と周囲はパニックに陥ったようです。そんな混乱の最中、紙くず同然となった国債をひそかに買い集めているグループがいました。ネイサンの使用人です。そして「その時期」を見計らってネイサンも国債の買いに転じました。

翌日、ウェリントン将軍の使いが「イギリス軍勝利」のニュースをイギリスに届けた時に、イギリス国債が破格の値上がりを示したことは言うまでもないでしょう。底値で買い、高値で売ったことで、当時の金で「100万ポンドの利益」を上げたという伝説が残っています。市場の小さな時代のことですから、この利益はまさに天文学的数字といえるでしょう。こうして金融王ロスチャイルド財閥が誕生し、このファミリーがヨーロッパ全土を支配するようになっていくのです。

「<a href="http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/nathan.html" target="_blank">ネイサンの逆売り</a>」より引用</blockquote>　
独自の情報網を駆使して、巨額の利益を得たのです（当時の財産３００万ドルをさらに２５００倍の７５億ドルに一気に増やしたそうです）。


　
<span style="font-size:120%;"><strong>●現在のロスチャイルドの勢力図</strong></span>
　
ロスチャイルドが営む主な金融グループは３つあります。
　
<center><a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/rothschild-familys.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/rothschild-familys.html','popup','width=525,height=459,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/rothschild-familys-thumb.jpg" width="300" height="262" alt="" /></a></center><center><span style="font-size:80%;">ロスチャイルド家系図</span></center>
　
一つ目は<span style="background:#FFFFA4">The Rothschild Group：ダヴィッド・レネ・ロスチャイルド</span>です。
The Rothschild Groupは<span style="color:#FFAE35;"><b>フランスのパリ</b></span>に本拠を置くParis Orleansを金融持ち株会社とし、その傘下にイギリスの投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズやフランスの投資銀行Rothschild & Cie Banqueやスイスを中心に活動するプライベートバンクRothschild Bank AGなどをもちます。ヨーロッパを中心に45カ国にオフィスを持ち、事業はM&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキングが中心です。特にM&Aでは取り扱い件数がヨーロッパで一番多い。The Rothschild Groupの金融持ち株会社であるParis Orleansはパリ証券取引所に上場しており、2011年においてその総資産は86.2億ユーロです。
　
<center><img alt="david.bmp" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/david-thumb.bmp" width="185" height="150" /><img alt="ivrin.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/ivrin-thumb.jpg" width="150" height="150" /></center><center><span style="font-size:80%;">ダヴィッド／イヴリン</span></center>
　
二つ目は<span style="background:#FFE3E3">Edmond de Rothschild Group：ベンジャミン・ロスチャイルド</span>です。
Edmond de Rothschild Groupは<span style="color:#ff3300;"><b>スイス</b></span>に本拠を置く金融グループであり、傘下に、スイスを中心に世界中で富裕層の資産運用（プライベート・バンキング）を行うBanque privee Edmond de Rothschildや、フランスを中心に世界中でワイナリーを営むCompagnie Vinicole Baron Edmond de Rothschildなどがあります。傘下のBanque privee Edmond de Rothschildはスイス証券取引所に上場しており、2010年においてその総資産は123億スイスフランです。
　
<center><img alt="benjamin.bmp" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/benjamin.bmp" width="150" height="150" /></center><center><span style="font-size:80%;">ベンジャミン</span></center>
　
三つ目は<span style="background:#A4FFA4">RIT Capital Patners：ジェイコブ・ロスチャイルド</span>です。
RIT Capital Patnersは1980年に設立された、<span style="color:#009933;"><b>イギリスのロンドン</b></span>のスペンサーハウスに本拠を置くInvestment Trustであり、アメリカやイギリスを中心として世界中の会社に投資を行っています。RIT Capital Patnersはロンドン証券取引所に上場しており、2011年において総資産は23.8億ポンドです。
　
<center><img alt="jaycob.bmp" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/jaycob-thumb.bmp" width="112" height="150" /><img alt="nasanieru.bmp" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/nasanieru-thumb.bmp" width="239" height="150" /></center><center><span style="font-size:80%;">ジェイコブ／ナサニエル</span></center>

参照：<a href="http://www.news-us.jp/article/233918936.html">米欧デフォルト・ロスチャイルド崩壊ニュース</a>
　
　
<span style="color:#ff3300;"><strong>ロスチャイルド家は、世界中の中央銀行オーナーとして君臨し、通貨発行権を握ることにより、世界を実質支配しています。</strong></span>（参照：<a href="http://www.trend-review.net/blog/2012/04/002253.html">★金貸し支配の構造（中）～中央銀行制度は金貸し支配の究極手段～）</a>
　
世界中で、ロスチャイルドが支配していない中央銀行は、911同時多発テロ以前では、アフガニスタン、イラク、スーダン、リビア、キューバ、北朝鮮、イランの７カ国であったが、2003年までに、アフガンとイラクが、2011年にはスーダンとリビアが支配されました。よって現在支配していない中央銀行は世界中でも３つのみ（キューバ、北朝鮮、イラン）になります。
　
初代のマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが残した言葉「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでも良い。」（１７９０年発言)は有名で、中央銀行制度をうまく利用することで、今もなお世界支配を進めています。
　
次回は、ロスチャイルドと並ぶ勢力を持つと言われているロックフェラーについて見ていきたいと思います。]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち（１６）エピローグ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kane-kasi.com/blog/2012/05/001864.html" />
   <id>tag:www.financial-j.com,2012:/blog//1.1864</id>
   
   <published>2012-05-09T05:26:14Z</published>
   <updated>2012-05-16T18:19:53Z</updated>
   
   <summary>　「脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち」シリーズも15作続いてきました。紹介した理論家は、数にして12人。今回の投稿では、その12人の理論・思想を簡単に復習した上で、今シリーズを通じての学びをまとめたいと思います。 その前に、このシリーズの目的をもういちど最初の投稿から振り返ってみましょう。 　現在、世界経済は崩壊の淵に立たされています。実体経済から遊離し、国境を越えて膨れ上がったマネー経済は、21世紀に入ってその膨張限界を迎えて崩壊。何千兆円の損失は国家に押し付けられ、挙句の果てに米欧をはじめ全ての先進国で国債と通貨の暴落危機を招いています。国債経済とグローバル金融資本主義の終焉です。 　しかし過去を遡れば、現在の危機的状況は、&apos;80年代の日本のバブル、&apos;70年代ニクソンショック、さらには戦後ブレトンウッズ体制の必然的な帰結でもあり、金融資本（金貸し）を頂点とし、市場原理によって動いてきた近代以来の経済システム全体が終焉を迎えているのだと考えられます。 　こうした中、このような現代の経済システムに異議を唱えてきた過去～現代の経済理論家たちの存在感が次第に増してきています。彼らはこれまで経済の世界では異端・傍流でしかありませんでしたが、世界経済が混迷の度を強める中で、その指摘の正しさが改めて見直されているのだと考えられます。 　今回のシリーズでは、こうした脱金貸し・脱市場原理の経済理論家たちの思想や学説から、次代の経済システムのヒントを見つけてみたいと思います。 　それでは各人の【問題意識】と【提案】を簡単におさらいしましょう。 その前に、応援よろしくおねがいします :m261:  :m034:    　 ...</summary>
   <author>
      <name>banba</name>
      
   </author>
         <category term="07.新・世界秩序とは？" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kane-kasi.com/blog/">
      <![CDATA[　「脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち」シリーズも15作続いてきました。紹介した理論家は、数にして12人。今回の投稿では、その12人の理論・思想を簡単に復習した上で、今シリーズを通じての学びをまとめたいと思います。
その前に、このシリーズの目的をもういちど最初の投稿から振り返ってみましょう。

<blockquote><a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/01/001803.html">
　現在、世界経済は崩壊の淵に立たされています。実体経済から遊離し、国境を越えて膨れ上がったマネー経済は、21世紀に入ってその膨張限界を迎えて崩壊。何千兆円の損失は国家に押し付けられ、挙句の果てに米欧をはじめ全ての先進国で国債と通貨の暴落危機を招いています。国債経済とグローバル金融資本主義の終焉です。

　しかし過去を遡れば、現在の危機的状況は、'80年代の日本のバブル、'70年代ニクソンショック、さらには戦後ブレトンウッズ体制の必然的な帰結でもあり、金融資本（金貸し）を頂点とし、市場原理によって動いてきた近代以来の経済システム全体が終焉を迎えているのだと考えられます。

　こうした中、このような現代の経済システムに異議を唱えてきた過去～現代の経済理論家たちの存在感が次第に増してきています。彼らはこれまで経済の世界では異端・傍流でしかありませんでしたが、世界経済が混迷の度を強める中で、その指摘の正しさが改めて見直されているのだと考えられます。

　今回のシリーズでは、こうした脱金貸し・脱市場原理の経済理論家たちの思想や学説から、次代の経済システムのヒントを見つけてみたいと思います。</a></blockquote>


　それでは各人の【問題意識】と【提案】を簡単におさらいしましょう。

その前に、応援よろしくおねがいします :m261:  :m034: 
 
<a href="http://blog.with2.net/link.php?1369420" title="人気ブログランキングへ" target="_blank"><img src="http://image.with2.net/img/banner/banner_14.gif" width="80" height="15" border="0" /></a>　<a href="http://economy.blogmura.com/" target="_blank" id="blogmura"><img src="http://economy.blogmura.com/img/economy80_15.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 経済ブログへ" /></a>
]]>
      <![CDATA[<span style="color:#009933; font-size:130%;"><strong>■経済理論家たちの思想・学説（まとめ）</span></strong>
 
 <span style="background:#C8FFFF"><b>●カール・ポランニー</b></span>
 
<img alt="%E3%82%AB%EF%BC%8D%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BC%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%88%E6%9B%B8%E7%B1%8D%EF%BC%89.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%82%AB%EF%BC%8D%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BC%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%88%E6%9B%B8%E7%B1%8D%EF%BC%89-thumb.jpg" width="250" height="117" align="left" />
【問題意識】
○市場が絶対視され、社会が市場に従属する現代は特殊な時代
○市場経済が本来市場にそぐわない「労働・土地・貨幣」を商品化したことが最大の問題
○市場が人間・自然の唯一の支配者になれば
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　社会は崩壊

【提案】
○「労働・土地・貨幣」を市場からとりのぞく
○市場経済における私益追求の行動原理から互酬、再分配、交換を基にした新たな行動原理へ
○経済統合を行う為には個人ではなく集団に基づく統合が必要
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/01/001807.html">こちら</a>
 
 
<span style="background:#C8FFFF"><b>●ミヒャエル・エンデ</b></span>
 
<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85%E3%83%9F%E3%83%92%E3%83%A3%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85%E3%83%9F%E3%83%92%E3%83%A3%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87.html','popup','width=503,height=391,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85%E3%83%9F%E3%83%92%E3%83%A3%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87-thumb.jpg" width="250" height="194" align="left" /></a>
【問題意識】
○環境、貧困、戦争、精神の荒廃など現代の様々な事象の根源にお金の問題が潜んでいる
○実体経済のお金と資本経済のお金を分けて捉えなおさなければ問題発掘は出来ない
○自然界に存在しない「永遠不滅のお金」
【提案】
○お金の性質自体を変える：「老化する貨幣」
<BR>

詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/02/001816.html">こちら</a>

<BR>
<span style="background:#C8FFFF"><b>●シルビオ・ゲゼル</b></span>
 
<img alt="jiyuukahei.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/jiyuukahei-thumb.jpg" width="250" height="308" align="left" />
【問題意識】
○本来交換手段として流通を促すお金が、劣化しないという性質により商品の交換を抑制→経済停滞、失業
○土地の私有→地代による搾取
○土地の国有化→領土をめぐる戦争
【提案】
○自由貨幣＝減価する貨幣
→市場が投機家の陰謀、地代生活者や銀行家の見解、気分に左右されなくなる
→商品の流通が促進され、景気が安定する
○自由土地＝土地の私有を禁止
○共同体に大きさに適した広さの土地を貸与
→完全な自由貿易、資源平等
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/02/001819.html">こちら</a>
 
 
<span style="background:#C8FFFF"><b>●エルンスト・フリードリヒ・シューマッハー</b></span>
 
<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85EFS%EF%BC%92.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85EFS%EF%BC%92.html','popup','width=500,height=382,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85EFS%EF%BC%92-thumb.jpg" width="250" height="191" align="left" /></a>
【問題意識】
○大衆に根付く「富に対する執着心」が、戦争や環境破壊、精神破壊を引き起こしている
○大量消費によって最大の満足を得る”経済的価値”を絶対視→無理な市場拡大
【提案】
○「富への執着心」を振り払い、まずは「物は足りている」ことを一人一人が自覚し、「僅かな消費で、最大の満足を得る生活」の実現を志向　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　することが必要
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/02/001824.html">こちら</a>
 
 
<span style="background:#C8FFFF"><b>●サティシュ・クマール</b></span>
 
<img alt="%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%88%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%BC%EF%BC%89.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%88%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%BC%EF%BC%89-thumb.jpg" width="250" height="195" / align="left">
 【問題意識】
○「未発展」「貧乏」という概念＝西欧合理主義の洗脳、陰謀
○デカルトの『自我』と『二元論』は誤り
【提案】
○伝統生産、手仕事によるスワデーシ（地域経済）へ回帰
○「ソーハム（彼は我なり）」という世界観
○〝依存哲学〟＝自分たちが相互に依存し、自然に依存しているとする古代の英知の再発見
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/02/001826.html">こちら</a>と<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/02/001830.html">こちら</a> 
 
 
<span style="background:#C8FFFF"><b>●ヴァンダナ・シヴァ</b></span>
 
<img alt="navudanyakonpost-thumb.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/navudanyakonpost-thumb-thumb.jpg" width="250" height="186" align="left" />
【問題意識】
○農業における多国籍企業の技術介入＋官僚機構による貿易、財政支配＋知的所有権体制
→単一農法、農薬多用（暴力的農業）生態系の弱体化
→少数の巨大企業の成長と集中、独占
→地域の生産者、食糧供給、食の質、コミュニティや人びとの食糧自給の能力低下


【提案】
○種子と農業を独占的支配から自由に保つための運動（ナヴダーニャ運動：写真）
○非暴力的農業：種の多様性の保護
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/03/001836.html">こちら</a>
  
 
<span style="background:#C8FFFF"><b>●宇沢弘文</b></span>
 
<img alt="%E5%AE%87%E6%B2%A22.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E5%AE%87%E6%B2%A22-thumb.jpg" width="250" height="187" align="left" />
【問題意識】
○新自由主義、市場原理主義に対する危機感
○日本は植民地になりさがっている！
【提案】
○社会的共通資本（＝自然資本、社会インフラ、制度資本）の構築
→官僚集団や市場原理主義的な立場ではなく、コモンズ（＝密接な生活集団、職業的専門家集団）によって運営
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/03/001839.html">こちら</a> 
 
  
<span style="background:#C8FFFF"><b>●ロン・ポール</b></span>
 
<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB.html','popup','width=500,height=381,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB-thumb.jpg" width="250" height="190" align="left" /></a>
【問題意識】
○政府による課税＝合法的な略奪
○経済を閉塞へ追いやった連邦準備制度理事会（FRB）
○軍需産業の儲けの為の「平和」を建前とした戦争
【提案】
○自由な経済の実現＝自立した地域共同体による経済
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　○金銀を含め複数の通貨を発行
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　→ドル紙幣・FRB廃止
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　○戦争における大義の重要性を見失っては
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　いけない
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/03/001844.html">こちら</a>  
 
 
<span style="background:#C8FFFF"><b>●ムハマド・ユヌス</b></span>
 
<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85MY1.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85MY1.html','popup','width=498,height=382,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E2%98%85MY1-thumb.jpg" width="250" height="191" align="left" /></a>
【問題意識】
○商人によって人工的に貧困がつくりだされている
【提案】
○マイクロクレジット＝共同責任の無担保小口融資システム
→担保を持たない貧者も生業をはじめられる
○ソーシャルビジネス＝社会を脅かす諸問題を克服しながら貧者を救うビジネス　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 ①投資家や株主は一切の配当を受け取らない
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　というモデル
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　②貧者によってソーシャルビジネスが所有され
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 ているという形態
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　→貧者の雇用と金銭的余力を生み出すことが
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 できる
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/03/001848.html">こちら</a> 

<BR>  
<span style="background:#C8FFFF"><b>●ムハンマド・バーキルッ・サドル</b></span>
 
<img alt="%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%89%E3%83%AB%EF%BC%88%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%EF%BC%89.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%89%E3%83%AB%EF%BC%88%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%EF%BC%89-thumb.jpg" width="250" height="95" align="left" />
【問題意識】
○資本主義者も、共産主義者も経済問題の分析が誤っている
・資本主義者…人間の欲望は無限であり、必要とされる自然資源の不足が経済問題
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　・共産主義者…工業生産などの生産方式に
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　よって生じる配分関係の不平等（資本家階級
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　の労働者階級への搾取）が経済問題を引き
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　起こす→両方誤った分析
【提案】
○イスラームの実現
・世界観＝タウヒード、生活の指針＝シャーリア、集団＝ウンマを基本構造とする
・神の代理人としての所有権、労働の奨励と促進（浪費や不労所得の禁止）、財の社会的還流など集団統合発の社会規範によって構成されている
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/04/001849.html">こちら</a>と<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/04/001852.html">こちら</a>
 
 
<span style="background:#C8FFFF"><b>●二宮尊徳</b></span>
 
<img alt="%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3.bmp" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3-thumb.bmp" width="250" height="132" align="left" />
【問題意識】
○疲弊する農村をどうしたら復興できるのか
○農民自身の自主性、共同性を引き出す方法
【提案】
○報徳仕法：誠至、勤勉、分度、推譲
○尊徳の提起した組織論が、報徳社（農民・集
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　落の事業組織）へと発展し、明治初期の農村
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　基盤をつくり上げた
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/04/001856.html">こちら</a>
  
 
<span style="background:#C8FFFF"><b>●安藤昌益</b></span>
 
<img alt="%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A-thumb.jpg" width="250" height="166" align="left" />
【問題意識】
○万人が直耕する社会が自然と人間の原点
○王侯・貴族、武士がそれを横取りした
○儒教や仏教は、支配を正当化する妄説である
【提案】
○全ての階層に対し、直耕（生産）を義務付ける
○都市の各階層（学者・僧侶・神官、職人、商人、遊民）を農漁村に移住させる
○政事は、集落自治（邑政）で足りる
○そのようにして長い期間をへれば、再び、自然・直耕の世に戻っていく
 
詳しくは<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/05/001860.html">こちら</a> 
 
<BR><BR>
<span style="color:#009933; font-size:130%;"><strong>■シリーズを通しての学び</strong></span>  
 
　近代社会の前提となっている「当たり前」にとらわれず、今回のシリーズを改めて捉えなおすと新しい経済システムの可能性という意味で次の4点の学びがありました。
 
<span style="color:#6666ff;"><font size="4"><strong>
1.金貸し、官僚による支配からの脱却</strong></font></span>
　今回扱った理論家たちに通底するのは、金貸し（西洋、植民地政府、支配階級等）支配からの脱却、自分たちで社会を動かしていこうという考えです。
　例えば宇沢は官僚からの支配から脱却するためにコモンズ（＝密接な生活集団、職業的専門家集団）によって社会的共通資本を運営することを提案しました。また、ガンジーの意思を引き継いだサティシュ・クマールやヴァンダナ・シヴァも、地域経済への回帰や種子保護運動によって西洋や多国籍企業の独占から逃れようと訴えています。

<span style="color:#6666ff;"><font size="4"><strong>
2.貨幣・市場・所有制度の転換</strong></span></font>
　金貸し支配による問題を解決するには、現代の通貨システム、市場化の対象、私有制といった、彼らがつくった制度を根本的に見直す視点が必要です。
　貨幣制度の問題に切り込んだのがゲゼル（エンデ）、サドル、ユヌスです。例えば、ゲゼルは貨幣のみが他の商品の共通する性質（＝劣化する）を免れていることが問題の根幹であると分析しています。またイスラム経済では利子の制度をとっていませんし、ユヌスにおいては無担保での融資システムをおこなっていますが、彼らも現在の制度が金貸し有利になっている点に根本的な問題を見出しています。
　そしてポランニーは、本来市場経済にそぐわないもの（労働・土地・貨幣）を市場化したところに問題があると訴え、互酬、再分配、交換を基礎にした新しい統合原理を提案しています。ゲゼルの自由土地のアイディアも、土地は本来私有すべきものではないという考えから来ています。

<span style="color:#6666ff;"><font size="4"><strong>
3.西洋近代思想からの価値観の転換</strong></span></font>
　市場原理、新自由主義の批判は同時に、それらを正当化する私益追求や個人主義への批判にもつながります。
　私益追求、個人主義をはじめとした近代思想には、サティシュがメスをいれています。デカルトの二元論をはじめとした西洋近代思想の「分離する哲学」を批判した上で、インド、アフリカ、ネイティブアメリカンの「関係をみる哲学」に光をあてています。それはイスラムの慣習にも共通しますが、「足るを知る」、自然への感謝という日本人にも馴染みの深い哲学です。（二宮、安藤からもそういった価値観がうかがえます）そしてこのような価値観に転換すれば、現代の多くの問題（環境破壊、戦争、精神崩壊、無理な市場拡大）も解決していけるのでは、とシューマッハーは説いています。

<span style="color:#6666ff;"><font size="4"><strong>
4.集団、共同体の再生へ</strong></span></font>
　私益追求、個人主義をはじめとした近代思想の批判からはその逆方向、つまり集団や共同体による生活、経済運営の可能性が導き出されます。
　ロン・ポールは「政府による課税＝合法的な略奪」を問題視し、自立した地域共同体による経済の必要性を説いています。また、伝統的に共同体を重んじてきた日本やインド、イスラムの思想家からは、いかにして人びと（インド、日本では主に農民）の共同性を高めるかという哲学や精神論が述べられています。そしてインドや日本では、農業を通じて精神性の向上や共同体の強化はかられてきたことがわかります。
<BR>
 
　3.11以降、もう官僚に任せてはおけないという感覚が社会にますます広まってきました。自分たちの手で、次代の新しい理論を構築しこうという気運が高まりつつあります。
　今回のシリーズで扱ってきた理論家たちを含め先人たちの知恵、自然の摂理、そして歴史構造に学びながら、これから次代のシステムを皆で共に考えてゆきましょう。
 
　長らくお付き合いいただき、ありがとうございました  :m216: :m217:  :m216: ]]>
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   <title>近代市場の成立過程（４）～メディチ家はなぜ栄えたか？</title>
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   <published>2012-05-06T12:30:10Z</published>
   <updated>2012-05-16T18:20:55Z</updated>
   
   <summary> メディチの出自は謎―。 薬屋だったという説もあるが、確証なし。最も古い記録が、後年、メディチ一族のフィリーニョが著した「備忘録」による、１１６９年フィレンツェ中心部で両替商をしていたということ。土地基盤をフィレンツェ北方のムジェッロに有していたというのは事実のようだが、１３世紀まではメディチ一族のフィレンツェにおけるその経済力は未だニ流。代々の家業である銀行業（高利貸業）によって経済的力量と財産基盤を拡大していくのは、１４世紀に入ってから。 １４世紀後半から１５世紀のメディチ黄金時代を築いた人物として、ジョヴァンニ、コジモ親子に注目していきます。 参考図書：藤沢道郎「メディチ家はなぜ栄えたか」 応援ありがとうございます。 　  ...</summary>
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</center>

メディチの出自は謎―。

薬屋だったという説もあるが、確証なし。最も古い記録が、後年、メディチ一族のフィリーニョが著した「備忘録」による、１１６９年フィレンツェ中心部で両替商をしていたということ。土地基盤をフィレンツェ北方のムジェッロに有していたというのは事実のようだが、１３世紀まではメディチ一族のフィレンツェにおけるその経済力は未だニ流。代々の家業である銀行業（高利貸業）によって経済的力量と財産基盤を拡大していくのは、１４世紀に入ってから。

１４世紀後半から１５世紀のメディチ黄金時代を築いた人物として、ジョヴァンニ、コジモ親子に注目していきます。
参考図書：藤沢道郎「メディチ家はなぜ栄えたか」

応援ありがとうございます。
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■政・財・学の基盤を築いたジョヴァンニ・デ・メディチ（１３６０～１４２９）

<blockquote>政治のことはとくにわかりません、私は苦手です、商売に専念したいけれど、でも（プレオーレに）選ばれた以上は市民の義務ですから一生懸命にがんばります、などといい、<span style="color:#ff3300;"><strong> 他人にもほんとにこの人は政治がだめなんだと思わせて、高度の政治技術を駆使することができるのは、かなり複雑な人格だといわなければならない。そしてジョヴァンニはそれができる人だったのである。</strong></span>

巨額の金をジョヴァンニがどうして儲けたのか。商売の天才だったから、といってしまえばそれまでだが、ローマ支店の収益が本店や他の支店に比べて格段に多いことに注意する必要がある。なぜローマでそんなぼろ儲けができたかを調べていくと、一人の怪人物が浮かび上がる。バルダッサーレ・コッサ、ナポリの貴族。

１４０２年枢機卿となったコッサは、うまく取り入り教皇の信任を得て、二年後には教皇代理としてボローニャの司教を任された。ジョヴァンニは影のごとく彼に付き添い、必要な金を彼のために用立てた。そしてこの時期に、メディチ銀行は教皇庁財政に深くかかわり、<span style="color:#ff3300;"><strong>「教皇庁のメインバンク」として得られる収益が、メディチ家を経済大国フィレンツェ第三位の富豪に押し上げたのである。</strong></span>

さらに、生涯を通じてメディチ家発祥の地であるムジェッロに、広大な土地を長年かけて購入していたことも注目に値する。彼はただ都市部の上流階級との人脈を作ればよいと思っていたわけではない。<span style="color:#ff3300;"><strong>市内の労働者や市民のほかに、周辺農村にも支持基盤を着々と築いていたのだ。</strong></span> 

また、ジョヴァンニは「名門」の条件を手にいれるために、嫁とり、息子の教育にも力を入れ、特に跡継ぎのコジモには英才教育を施した。性急に銀行実務を教えこもうとはせず、<span style="color:#ff3300;"><strong>当代一流の学者を呼び寄せ、学問芸術の雰囲気に親しませた。</strong></span> フィレンツェ共和国の官僚組織はトップに高名な<span style="color:#000080;"><strong> ウマニスタ（人文学・古典学を修めた知識人）</strong></span>を据えるのがならいで、彼らから得られる情報は、ただ学問的なものばかりではなかったはずだ。</blockquote>

政治の表舞台には決して出ず、しかし着々と厚い人脈を作り上げ、将来のメディチ党の基礎を築いたジョヴァンニは、現代の金貸しの姿そのものです。さらに後年、「理想のパトロネージ」と呼ばれるその子コジモですが、当時の知的状況 ≒世論形成の動向を押さえておきます。

■１５世紀初頭の知的状況

<blockquote>大学を中心とする中世盛期とは様変わり、<span style="color:#ff3300;"><strong> 中世の大学は神学と法律学が中心なので、新しく湧き起こってきた「ウマネジモ」（英語でヒューマニズム、日本語では人文主義）の思潮を包容しきれず、時代の要求に応えられなくなっていく。</strong></span>社会を知的にリードできなくなった大学は、いくら権威を振りかざしてもどんどん質が下がっていくし、大学という組織の同業組合的な性格を考えると、いったんレベルが下がりはじめれば、これに歯止めをかけるのは容易ではない。

パリ大学もボローニャ大学もかつての精彩を失うと、それにかわって知の第一線に躍り出て、<span style="color:#ff3300;"><strong> 「世論」形成に一役買うのが、ウマニスタと称する自由職業の知識人である。</strong></span>彼らは家庭教師をしたり私塾を開いたり、君主や貴族の秘書役を務めたり、あるいはフィレンツェの場合のように官途についたりして生計を立てながら、言論思想活動を展開し、その時代の知の最先端にあると自負していた。活版印刷が普及する前であり、<span style="color:#ff3300;"><strong> 彼らが書物を集めるには大変な労力と資金が必要だ。</strong></span>

従来、そうしたパトロンの役割を演じてきたのはカトリックだったが、ウマニエスタたちは多かれ少なかれ世俗的かつ革新的で、教会公認の神学と思想的に整合しない。巨大な財力を持つ商人が、彼らの思想に共感と理解を示し、資金を出してくれて、金は出すが口は出さないというパトロネージの理想を実現してくれれば、いうことはないのだ。コジモ・デ・メディチはその理想を体現するように育っていったのである。

こうして<span style="color:#ff3300;"><strong> メディチ家に出入りする学者・知識人が質量ともに増加し、それがメディチ家を擁護する世論の形成に重要な役割を演ずることになる。</strong></span>コジモの趣味は実益を兼ねた。</blockquote>

ジョヴァンニが、密かに、だが、着々と整えた政・財・学の基盤を、息子コジモはさらに大胆な戦略で雄飛させていきます。しかも、その権力は、コムーネ的共和体制という点では、これまでと何ら変わりないのだと、一般に信じさせたままで。コジモはそれに成功し、<span style="color:#000080;"><strong>いつの間にかフィレンツェの実質上の「王」</strong></span>となっていきます。そんなことがどうして可能だったのか。

その問題に入る前に、彼の銀行事業がどんなものであったか、どのような発展をしたかを見ておきます。

■メディチ銀行の発展

<blockquote><u>１．カトリックの教義との関係</u>
<span style="color:#ff3300;"><strong>中世のカトリック教会では、金を貸して利息をとることは悪徳であった。</strong></span>「元金を超えて返済させる行為はすべて<span style="color:#000080;"><strong>ウズーラ（高利貸）</strong></span>であり、罪悪である」と教会法に明記されていた。だから中世後期のイタリアの銀行業者にとってこの問題は頭痛のタネであり、非難を逃れるためだけではなく、自分の霊魂の救済のためにも<span style="color:#ff3300;"><strong> どのように銀行事業を正当化するのかに心を砕いた。そこで登場したのが「両替業」という名目。利息ではなく両替手数料であるという言い訳を立てた。</strong></span>だから、実態は銀行業でも、看板はあくまでも両替業である。

<u>２．貿易との関係</u>
この時期の大銀行は例外なく貿易商社を兼ねていたし、融資から生ずる収入と輸出入から生ずる収入とは、帳簿の上でも明確に区別されていない。銀行、両替商、貿易商の３つの活動は、不可分にして一体だった。メディチ銀行も手広く外国貿易を行っており、特に<span style="color:#000080;"><strong>■書籍とミョウバン（良質の染料をつくるのにかかせない)</strong></span>に力を入れていた。

<u>３．企業形態と組織</u>
メディチ銀行は創業当初からパートナーシップ制をとっており、フィレンツェに本店を置いて発足した１３９７年以降、社員として雇用するのではなく、資本を分担させて共同経営の責任を負わせ、<span style="color:#ff3300;"><strong> 報酬を給与としてではなく、あがった収益を資本金負担の割合に比例して分配する</strong></span>というやり方をとった。このシステムをとる背景は、ひとつには、ヨーロッパに広く事業を展開するための交通通信手段の限界により、支店長に一定以上の裁量権を与える必要があること。そのためにはパートナーシップとして、責任性と自主性を発揮させ、報酬は全体の業績が上がればそれに比例して上がるようにしておく方がよい。

もうひとつは政治がらみ。フィレンツェ市民は「自由」を自分たちの誇りとし、独立共和の思想をフィレンツェという都市の「イデオロギー」としてきた。その中で「資格ある市民（＝参政権のあるひと）」とは、自主独立の生活を営む人であり、「主人持ち」でないひとびとを指すことになる。したがって<span style="color:#ff3300;"><strong> 家族だけで運営する慎ましいパン屋の主人には参政権はあるが、それより収入の多いメディチ銀行の従業員には参政権がないことになる。それはメディチ党にとっては損失でしかない。自派の有能な人材に参政権すなわち被選挙権を与えるためにも、パートナー制は有利だったのである。</strong></span></blockquote>

メディチ家と言えば、一般に豊かな経済力ばかりが注目されがちですが、実体はさにあらず。コジモはしたたかに、巧妙に、周到に政界を先読みし、あらゆる手をぬかりなく打っていきます。

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■独裁権力を確立したコジモ・デ・メディチ（１３８９～１４６４）

<blockquote>１４３３年、政敵との政争に敗れ、一時はフィレンツェ追放の憂き目にあったコジモだが、他国にあって、周到に死刑は回避され、独裁権力確立の準備を進めていた。１４３４年秋、フィレンツェに帰還し、権力を奪取。メディチ家のフィレンツェ支配がはじまった。コジモの野望は実現の緒についたのである。

形成逆転して亡命先から帰国したコジモは、民衆の歓呼に迎えられ、メディチ党はフィレンツェ共和国の全権を握った。その新体制がようやく落ち着きを見せ始めた１４３５年、コジモはメディチ銀行の大改革に着手する。創業時からの盟友であったバルディ家を追放し、家柄もなく小僧から叩き上げのジョヴァンニ・ベンチを本部の総支配人に大抜擢。１４３５年から１４５７年の間にメディチ銀行はさらに躍進を続け、当時のヨーロッパでは群を抜いて最大の巨大企業となった。最も収益を上げているのはローマ支店だが、その依存体質を改善し、全収益に対する比率も３分の１に達しないところまで落ち着いている。

また、この間の経営の中で目立つ特徴は、この時期に入って急に政治がらみの投資が多くなるということだ。<span style="color:#ff3300;"><strong >メディチ銀行の経営戦略とコジモの政治戦略が密接に絡み合うようになった。</strong></span>

例えば、１４２０年のリストラ対象となって整理縮小されたはずの毛織物会社が、ここへ来て復活し、それどころか新たに絹織物業界にまで進出している。その動機は明らかに政治的なもの、<span style="color:#ff3300;"><strong> 失業対策事業として発想された。庶民大衆はメディチ党の支持基盤でもあったからだ。</strong></span>
この時代の銀行業はどの店でも１０人内外かそれ以下の行員数で営業しているので、雇用対策としては銀行の店舗を増やしても効果はない。なんといっても製造業、それも織物工場に限るのだ。

さらに、メディチ家の私的サークルである<span style="color:#000080;"><strong>プラトン・アカデミー」</strong></span>「では、ギリシャの神とキリスト教の神を同一視することによって本来異教の思想である新プラトン主義思想とキリスト教との折衷に成功したため、広くヨーロッパに受け入れられていく。キリスト教文化の前駆形態としての古典古代文化という発想がウマニスタたちを魅了し、共和主義イデオロギー（古代ローマ共和政の「自由」の理念）は、ウマネジモの主潮から浮遊することになった。そうなればウマネジモはメディチ「独裁」にとって有益なだけで害はなく、思う存分これを後援することができる。</blockquote>
コジモは経営戦略と政治戦略、そして文化戦略を同時に見据える複眼的思考の持ち主であったといえるでしょう。ヨーロッパの情勢に精通したコジモは、イタリアの半島の動向をも掌中に収めていきます。

■共和主義とメディチ党

<blockquote>コジモとメディチ党が権力を握った１４３４<u>年当時、フィレンツェの市街は端から端まで歩いても２０分程度、人口５万前後。</u>では、それをとりまくイタリアの情勢はどのようなものだったのか。小国乱立も１５世紀に入れば戦国時代のサバイバルバーがはっきり見えてくる。

<u>北からいえば、まずミラノ公国、ついでヴェネツィア共和国、半島中部に移ってフィレンツェ共和国、その南一帯の教皇領諸国、そして南部のナポリ王国である。</u>５つのうち、政体も組織も非常に変則的な教皇領を別格とすれば、フィレンツェとヴェネツィアが長い伝統をもつコムーネ型共和制、ミラノとナポリが領邦型の君主制で、イデオロギー的には真っ向から対立するが、どの国も状況が差し迫ってくればイデオロギーより国益が大事なので、半島の覇権を狙って領土拡大に励みつつ、他の強国を自国以上の強国にさせないよう牽制怠りなく、国体如何にかかわらず合従連衡をくりかえしている。

この状況は、コジモとメディチ党がその「独裁」を確立するためには好都合だった。戦時下ということで、いくら共和主義的理念にとらわれた市民の多いフィレンツェでも、平等より団結の方が必要だということを理解しないわけにはいかないからである。

だがコジモがメディチ党のなかで党首として君臨できるのは、ただ財力に恵まれているからではない。メディチ銀行のオーナーとして、諸国支店網からあがってくる情報を自分に集中させ、つねに正確な最新情報を掴んでいることが、大きくものをいっている。そのうえ、銀行事業を通じて各国要人と結んだ個人的な人脈があり、そこからも豊かな情報が得られる。カネとモノとヒトの交流が密になればなるほど、情報もそれにつれて流れ込む。

フィレンツェ共和国の情報収集力はじつにお粗末なものであって、コジモ個人の力には到底及ばない。誰が政治のトップに就こうとも、コジモの意向を聞かずに外交はできない、だから、コジモはたいていの場合、要職に就かず、表面は一介の市民にすぎないが、国の外交は彼が取り仕切ることになる。

<span style="color:#ff3300;"><strong>メディチ銀行をヨーロッパ最大の銀行に育て上げ、粘り強い外交努力でイタリア半島の戦乱を終わらせ、メディチ党独裁体制の基盤を安定させ、公会議を誘致して文化都市フィレンツェの名を世界に知らしめ、プラトン・アカデミーを設立して思想界の位相を変換させ、さらにフィレンツェ・ルネサンスを強力にバックアップしてイタリア全域に新様式を普及させたとき、コジモの野望はあらかた実現した。</strong></span> </blockquote>

ジョヴァンニとコジモが営々と築いてきたメディチ家の基盤とは、まず財力、そしてメディチ党の権力です。そしてそのメディチ党の権力を支えていたものは、周辺郡部の農民まで含めた労働大衆の支持、支店網から上がってくる精度の高い国際情勢、援助した知的エリートによる世論の主導。ここに、金、権力、共認形成力が三位一体となって大メディチ伝説が確立したのです。

しかし、次代のメディチ家が、家業であったはずの銀行業務に直接携わらなくなり、貴族化を強めていくと、下層の民衆との距離が大きくなり、積極的支持が得にくくなり、そのうえ財力が枯渇してくると、金の力で支持を取り付けることもできなくなります。さらに、予言者サヴォナローラの「キリスト者のモラル」を盾にした、メディチ文化の異教的・快楽主義的傾向への激しい攻撃、つまりウマネジモとルネサンスに対する正面攻撃が追い討ちをかけ、メディチは急激に没落していきます。

<span style="color:#ff3300;"><strong>いくら目立たないように、という家訓を守ったとしても、たかが人口５万人の都市では目立たない方がおかしい。現代の金貸しように深く長く潜伏するためには、陸・海・空を超えた「グローバル化」を待つ必要があったのかもしれません。</strong></span> 

では、次回、メディチ家がその隆盛に大きくかかわったルネサンス芸術を、近代市場に果たした視座からながめていきます。

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   <title>『日本国債暴落の可能性は？』～国債発行の歴史と直近の発行残高（国の借金1000兆の実態）～</title>
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   <published>2012-05-04T05:46:11Z</published>
   <updated>2012-05-16T18:22:33Z</updated>
   
   <summary> こんばんは。ＧＷ前から仕事がバタバタで、しばらくぶりの更新になりますが、ご容赦ください。本日は『日本国債暴落の可能性は？』についてシリーズでお送りしている第３回目。「国債発行の歴史と直近の発行残高（国の借金1000兆の実態）」をお送りします。 まずは本題に入る前に、いつものやつをポチっとお願いします。 　 ...</summary>
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      <![CDATA[<img alt="%E5%9B%BD%E5%82%B5%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E5%9B%BD%E5%82%B5%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.jpg" width="430" height="247" />

こんばんは。ＧＷ前から仕事がバタバタで、しばらくぶりの更新になりますが、ご容赦ください。本日は『日本国債暴落の可能性は？』についてシリーズでお送りしている第３回目。「国債発行の歴史と直近の発行残高（国の借金1000兆の実態）」をお送りします。

まずは本題に入る前に、いつものやつをポチっとお願いします。
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      <![CDATA[では早速、トップの画像にもしていまするいネットで定期的に更新されている経済データがありますので、ご紹介します。政府が発表している最新のデータに基づいて、国の借金残高と実質GDPのグラフになります。

■<a href="http://www.rui.jp/new/chumoku/pdf/GDP_kokusai.pdf">国の借金残高・実質GDPグラフ（1965年～2010年）</a>
（元データは全て<a href="http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kakuhou/files/files_kakuhou.html">「国民経済計算確報」内閣府リンク</a>）

<blockquote>
【GDPグラフ】
折れ線グラフで描かれているGDP（国内総生産）は、国内で生み出された付加価値の総額を示しており、国内の生産力を表している。企業がその営為の結果、生み出した売上げは、労働者に給料として分配され、支出に回される。よって、GDPは生産力を表すと同時に、消費力を表している。

高度経済成長期に当たる1965年～1970年は、10%前後の成長率を示しており、1970年以降から1990年バブル崩壊までは4～5%の成長率が維持されている。しかし1990年バブル崩壊以降は2%前後の低成長が続いており、特に2008年世界経済危機以降はマイナス成長に陥っている。

【国の借金グラフ】
棒グラフで描かれている国の借金は、中央政府と地方自治体の公債（国債・地方債）及び直接の借入金の総合計としている。
国の借金は、1970年以降、バブル期の2年間を除いて一貫して膨れ続けてきたことが分かる。2010年現在、借金総額は1036兆円にも上る。

〔この内、約1兆ドル＝約90兆円は、米国債に投資されている。これには、為替介入の際に用いられる政府（国庫）短期証券約150兆円が使われていると言われている。実際、政府短期証券の残高は、米国債購入が始まったとされる中曽根時代の1990年前後から急速に増え続けている。〕

政府は借金し金を作ることで、公共事業の発注から仕事を生み出し、あるいは社会保障費として国民に分配することによって消費を刺激してきた。つまり、政府は財政赤字を垂れ流して（政府の借金を増やすことによって）、GDPを押し上げている。

〔※中央政府による歳出総額は、約140兆円あるが（重複を除いた一般会計予算と特別会計予算の合計。国債償還費を除く）、政府の財政支出は、全てGDPに含まれるので、GDP約500兆円の内およそ3割を中央政府が担っていることになる。GDPを支えている最大の主体は今や政府。〕

【GDP増―借金増】
政府の借金の増加分をGDPの増加分から引けば、借金増によるGDP増の影響を消すことができると考え、これを1965年から累積させていけば、「GDP増―借金増」という折れ線グラフ（四角と点線）を描くことができる。
これは、借金増がGDP増が上回り始めた1975年以降から下がり始めており、（バブル崩壊前後では一時的に回復しているが）1991年から急角度の下降線を辿っている。1996年からは遂にマイナスに突入し、2010年時点で▼593兆円となっている。
但しこの数字は、借金の増加分がそのままGDP増に直結していると仮定した場合に成立する話であり、実際にはストックの増がフローの増に直結する訳ではない。かなり低めに、日本経済を評価していることになる。

※ちなみにここでは金融資産：家計の現預金、国の借金などをストック、GDPをフローという概念で扱っています。政府が国債を発行（借金）して社会保障費としてばら撒いても、（一般家庭が貯蓄し）消費に繋がらなければGDPは増加しません。（子ども手当を家庭で貯金して経済発生している問題です）

【正味生産高】
そこで、新たな指標を用いて、日本経済の生産力を測る。つまり、借金による水脹れ率を経済成長率から除いて、成長率を補正し、この補正成長率を掛けたものを「正味生産高」として経年で計算していく。

正味生産高（兆円）
　　　　　　　　　　　　　　　　　GDP増加額　　　借金増加額
　＝前年度の正味生産高×（100%＋ ----------- ― ------------）
　　　　　　　　　　　　　　　 　　前年GDP　　　　前年GDP

この折れ線グラフでは、GDP成長率を借金増加率が上回り始めた1974年から一貫して下がっている。バブル末期には若干持ち直したが、1990年以降からは再び下降し、今や底這い状態である。

★日本政府が公表しているGDPから、借金によって水脹れさせた分を除けば、日本経済の実体は1970年以降、ほぼ一貫してマイナス成長となる。1970年以降の市場は、豊かさの実現によって縮小するしかなくなっている。

この数字を企業に例えるなら、借金増率を除いた売り上げ増率とも言える。つまり、1970年以降は（バブル期を除いて）「借金をしなければ売り上げ増が達成できない」「借金の増分を除けば、売上げが縮小する」サイクルに入っていることを意味している。

GDPの増＝国力や経済力の指標という固定観念が、表面的なGDP増の裏で、雪ダルマ式に増える国の借金につながっています。しかも本来は国力や経済力の増が、人々の豊かさや安心して暮せる社会システムの継続には繋がらない（むしろ表面的なGDP増を追う余り、社会や暮し、人々の関係はずたずたにすさんでしまったといえるのではないでしょうか？）

＊＊＊以上転載＊＊＊</blockquote>

上記の記事とグラフから分かるように戦後から始まる国債発行の歴史を見ると、「ＧＤＰ増－借金増」や「正味生産高」の推移は基本的に70年以降で大きく右肩下がりに転換していく・・・ようは縮小していく市場を無理やり国債発行によるカンフル剤で維持しようとしてきた事実が見えてきます。この転換に豊かさの実現＝生存圧力の克服があったことはもうこのブログのファンの皆さんであればお気づきだと思います。

本来、日本では建設国債のような将来の社会基盤整備による経済活性化以外では、原則として国債発行による財政補填を法律で禁じています。にもかかわらず実質的には赤字国債を超法規的に発行して、借金を雪だるま式に増やしながらも経済を維持してきたというのが実態です。

ここで国債発行のルールを歴史ともに確認しておきましょう。

●国債の種別と発行に関するルール
<blockquote>＞国債は発行目的により以下の4 つに大別することができる。前述した財投債、借換債、そして、建設国債、赤字国債である。建設国債とは、公共事業などの財源となる国債である。財政法4 条では「国の歳出は国債又は借入金以外の歳入を持ってその財源としなければいけない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を得た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる」と規定されている。
財政法は基本的に国債発行で財政運用をすることを禁止しているが、公共事業費、出資金及び貸付金を財源とする場合には国債発行が認められている。これが建設国債である。ダムの建設や道路や上下水道などといった公共事業には多額の資金が使われるが、国の資産が増えて産業が整備されれば将来の税収が増える要因になる。建設国債発行増大は日本が高度経済成長を成し遂げる上で必要なインフラ整備をしていく過程で起きた。つまり、1970 年以降も道路や架橋などを大都市間だけでなく採算の取れない地方にも予算配分して作り続けたのである。
これに対し、赤字国債は主に歳入不足を埋めるために発行される国債である。財政法で本来禁じられているものだが、発行される度に特例法を制定して発行するため、「特例国債」とも呼ばれる。赤字国債は不況のたびに発行されてきたが、とりわけバブル崩壊後の平成大不況時に赤字国債の発行額は過去最高となった。借換債は赤字国債などを借り替えたものなので自然に増加することになる。</blockquote>

<a href="http://d.hatena.ne.jp/etsuyoshi/20100523/1274562775">●借換債とは？</a>
<blockquote>「借換債」とは‘償還を迎えた普通国債の借換えのために発行される国債’です。新規国債（新規財源債）である「建設国債」「赤字国債」は‘60年’をかけて償還をすれば良いルール（60年償還ルール）となっています。

例えば600億円の10年物国債を発行した場合、償還期限（満期）が到来した10年後に返済するのは600億円の6分の1（60年分の10年分）にあたる100億円のみを返済し、残りの500億円は「借換債」の発行によって資金調達を行い、（一時的に全額を）償還します。

しかし、「借換債」を発行して調達した500億円は借金のまま残っているため、残りの50年を使って償還していきます。http://www.mof.go.jp/jouhou/kokusai/siryou/hakou12.pdf （このファイルは借換えの度に10年物国債を発行していくという例です。）従って、国債の発行残高が増えれば増えるほど、償還を迎え借換えが必要な国債も増えていくため、借換債の発行も増えていきます。</blockquote>

<a href="http://www.mof.go.jp/jgbs/reference/appendix/hakkou01.pdf">●国債管理政策の推移</a>
<blockquote>以下は戦後からの国債管理政策の推移を簡単にまとめた年表です。

～戦後の国債管理政策の推移～
・’65年（S40年）：国債発行開始（補正予算で歳入補償債）
・’66年（S41年）：建設国債の導入
・’71年（S46年）：国債の償還期限延長7年→10年、ニクソンショック
・’76年（S51年）：割引国債（5年）発行開始
　　　　　　　　　経常収支黒字を背景とした積極的な財政運営
　　　　　　　　　55年度特別公債依存体質からの脱却目標
・’85年（S60年）：国債整理基金特別会計法の改正
①短期国債、借換債前倒し発行
②電電株式等の同基金への帰属
　　　　　　　　　国債先物取引開始
　　　　　　　　　短期国債の公募入札開始
・’90年（H2年）：シ団10年債の入札割合を40％から60％に拡大
　　　　　　　　　臨時特別公債（ＴＢ）の発行
・’92年（H4年）：外国法人が保有するＴＢ・ＦＢの償還差益非課税措置
・’99年（H11年）：ＴＢ1年物の公募入札開始
・’00年（H12年）：15年変動利付債の公募入札開始
・’01年（H13年）：小泉内閣成立、財投債の発行開始</blockquote>


<a href="http://ezemi.kir.jp/ezemi/file/kinyu_k.pdf">●わが国における国債管理政策</a>＞
<blockquote>1965年戦後最大級とみなされた不況に陥ると、景気刺激のため戦後初の国債が1966年に発行された。しかもこれは赤字国債発行で、1965年山一證券に日銀特融がなされ、中央銀行が一民間企業に融資するという異例の事態に陥ったからである。
＞1967年以降は建設国債が毎年発行されることになり、財政予算主義は崩れ去った。
＞1971年のニクソンショック
　→政府は輸出企業も守るための円高阻止を目的に、金融緩和とともに財政拡大を行い国際発行は増大した。
＞1973年の第一次オイルショック→スタグフレーション
　→不況下で税収は大幅に落ち込んだので歳出不足分を国債発行で補わざるを得なかった。その後物価高の懸念がなくなると今度は赤字国債を発行して不況克服に望んだ。
＞1975年には5.3兆円の赤字国債が発行され、これ以降日本は完全に毎年赤字国債発行に依存する体質になった。
＞90年代にバブルが崩壊すると、その後の景気停滞に対し1993年に財政出動を実施した。1995年には赤字国債発行が再開されて、再び発行額は増加に転じた。</blockquote>




●近年の国債発行について
グラフを見ているとここ数年で国債発行が急激に増えている様子が伺えます。次はこの中身を見てみましょう。

<img alt="%E5%9B%BD%E5%82%B5%E7%99%BA%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%86%85%E8%A8%B3.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E5%9B%BD%E5%82%B5%E7%99%BA%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%86%85%E8%A8%B3.jpg" width="629" height="171" />

注目なのは短期国債の発行が急激に増えている点です。平成23年度と平成13年との比較では300％、平成18年度と比較しても150％を超えています。

この短期国債の発行額の急激な増加は何を意味しているのか？を調べていくうちに気になる記事を発見しました。

<a href="http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/koizumiuwamawarukokuekiuritobasi.html">『リーマンショック後、日本国債の増加は何で？＝何に使われたのか？米国再購入か？』長州新聞</a>
<blockquote>
第１の特徴は、日本経済の大収奪である。アメリカが牛耳るＩＭＦに指図されて、日本の財政赤字は世界一であり、消費税の大増税をしなければ破たんすると騒ぎながら、そのＩＭＦに十数兆円を拠出している。「欧州危機の拡大を防ぐため」といって新たに５０００億㌦（約４１兆円）の資金増強を呼びかけると、出資比率２位の日本が真っ先に手をあげ「６００億㌦（４・８兆円）を支出する」と莫大な税金を注ぎこむことを表明した。アメリカは日本が拠出することはほめるが自分は財政難を口実に拠出を拒否。中国やロシア、ブラジルなどは慎重姿勢。
　このなかで安住財務相は「早期の合意形成に向けた流れを作るには、わが国の態度表明が重要」「（拠出額は）加盟国では飛び抜けて最大」と自慢する有様だ。日本政府はリーマンショック後の２００９年にもＩＭＦに１０兆円拠出した。昨年夏には円高対策として１０兆円投じてドル買い介入。そのカネはアメリカ国債の購入に消え、アメリカ財政へのプレゼントとなった。
＊＊＊以上転載＊＊＊</blockquote>

ここにきて国債の増が米国債の購入に繋がっているという話しはかなり注目です。これが本当ならば、どこまで統合階級は売国奴なのか！！と言いたいところです。

国債発行の歴史と近年の発行残高について見てきましたが、市場拡大の名の下に構造的な国債発行による赤字垂れ流し体質が見えてきました。更に震災復興を理由に消費税増税法案が国会審議に入っており、今後もあらゆる負担は国＝国民が背負わされていく流れを統合階級は止めるつもりが無いようです。
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   <title>近代市場の成立過程（3）～ルネサンスの先駆者ダンテが金貸したちにもたらしたものは…</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kane-kasi.com/blog/2012/05/001858.html" />
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   <published>2012-05-03T01:30:15Z</published>
   <updated>2012-05-16T18:23:57Z</updated>
   
   <summary> 「ダンテ・アリギエーリ」 サンドロ・ボッティチェッリによる肖像画（1495年） 「近代市場の成立過程」シリーズ第三弾です。 前回、「近代市場の成立過程」～近代市場の誕生前夜・富豪の台頭⇒現代通貨制度の原型が形成される～（２）では十字軍遠征により金貸したちが台頭してきたことをお伝えしました。 今回は十字軍遠征後、ルネサンスの源流を創ったダンテに焦点を当て、彼が支配層や大衆に何をもたらし、その後のルネサンス芸術にどのうような影響を与えたのかを探っていきます。 いつも応援ありがとうございます☆ 　                ...</summary>
   <author>
      <name>tsuji1</name>
      
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         <category term="08.金融資本家の戦略" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[<center>
<img alt="%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86%E8%82%96%E5%83%8F%E7%94%BB%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86%E8%82%96%E5%83%8F%E7%94%BB%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA.jpg" width="200" height="306" />

「ダンテ・アリギエーリ」
サンドロ・ボッティチェッリによる肖像画（1495年）
</center>
<br>
「近代市場の成立過程」シリーズ第三弾です。


前回、<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/04/001859.html">「近代市場の成立過程」～近代市場の誕生前夜・富豪の台頭⇒現代通貨制度の原型が形成される～（２）</a>では十字軍遠征により金貸したちが台頭してきたことをお伝えしました。

今回は十字軍遠征後、ルネサンスの源流を創ったダンテに焦点を当て、彼が支配層や大衆に何をもたらし、その後のルネサンス芸術にどのうような影響を与えたのかを探っていきます。<br><br>

<p><br />
いつも応援ありがとうございます☆<br />
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</p>
              </div>

<hr size="3" color="#ffaaaa"/><br />
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      <![CDATA[<span style="font-size:130%;">■ダンテの略歴</span>

フィレンツェは当時、最も栄えた都市のひとつでした。金貸したちの経済的バックアップを受けた貴族や騎馬兵たちの力により、<u>北イタリアの諸都市が神聖ローマ帝国から自治権を奪い、自治都市（コムーネ）を作っていった頃にダンテは誕生</u>します。

<blockquote>ダンテは1265年、中部イタリアにあるトスカーナ地方の<span style="background:#FFFFA4"><u>フィレンツェで、金融業を営む小貴族の息子として生まれた</u></span>。

13世紀当時の北部イタリアは、ローマ教皇庁の勢力と神聖ローマ帝国の勢力が対立し、各自治都市はグェルフィ党（教皇派）とギベリーニ党（皇帝派）に分かれて、反目しあっていた。フィレンツェはグェルフィ党に属しており、ダンテもグェルフィ党員としてフィレンツェの市政に参画していくようになった。1289年には、カンパルディーノの合戦にて両党の軍勢が覇権を争い、血みどろの戦いを繰り広げた。この時ダンテもグェルフィ党の騎兵隊の一員として参加している。
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA">※ウィキペディア</a>　</blockquote>

<blockquote>彼の政治キャリアは、1295年に医薬業組合に入った時から始まります。その後５年間で彼の政治活動のキャリアは成長し、1300年には、組合長にまで登りつめます。しかし、両替商や毛織物業などの富裕市民が支持するグエルフィ白党と封建貴族が支持する黒党間の内紛が起こり、ダンテが入っていた白党が黒党に破れ、フィレンツェからの追放と、捕まった場合には、焚刑となるという宣告を受けます。
これ以降、ダンテは、イタリア国内を放浪し、フィレンツェに一度も帰ることなく、１３２１年にラヴェンナで死去しました。<br>
<a href="http://www.aboutflorence.com/firenze-gaido/firenze-yuumei-geijutsuka.html">※「フィレンツェの芸術家」</a></blockquote>

金貸し同士のなわばり争いに敗れたダンテはその後、各地を食客として放浪し、自治都市ラヴェンナに辿り着きました。「神曲」が書かれたのはその頃です。


<hr size="3" color="#ffaaaa"/><br />
<span style="font-size:130%;">■神曲とは</span>

神曲には中世のカトリック信仰に基づいた死語の世界が描かれています。生前の功績によって「地獄界、浄罪界、天国界」のいずれかに魂が運ばれます。神曲とはダンテ自身が地獄界から天国界までを遍歴する壮大な物語です。

神曲は三行を一連とする「三行韻詩」、三行連句の脚韻が aba bcb cdc と次々に韻を踏んでいって鎖状に連なるという押韻形式など表現の美しさ、聖書のみならずギリシア哲学や神話、自然科学など多くの知見を構成した百科事典のような重厚さと幻想的な内容が世界文学を代表する作品と評価されています。その幻想的な内容と豊饒なイメージから、数々の文学や芸術作品に大きな影響を与えてきました。

<blockquote><center><table width="90%"><td>
<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E7%A5%9E%E6%9B%B2.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E7%A5%9E%E6%9B%B2.html','popup','width=450,height=600,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img alt="%E7%A5%9E%E6%9B%B2.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E7%A5%9E%E6%9B%B2.jpg" width="180"  />
</a></td><td>
Inferno: Canto I
Torna all'indice dell'Inferno<br> 
地獄編　第一歌<br>
<span style="font-size:70%;">

Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura
che' la diritta via era smarrita.
われ正路を失ひ、人生の覊旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき

Ahi quanto a dir qual era e` cosa dura
esta selva selvaggia e aspra e forte
che nel pensier rinova la paura!
あゝ荒れあらびわけ入りがたきこの林のさま語ることいかに難いかな、恐れを追思にあらたにし

Tant'e` amara che poco e` piu` morte;
ma per trattar del ben ch'i' vi trovai,
diro` de l'altre cose ch'i' v'ho scorte.
いたみをあたふること死に劣らじ、されどわがかしこに享けし幸（さいはひ）をあげつらはんため、わがかしこにみし凡ての事を語らん　</span></td></table></center></blockquote>
しかし、それだけではありません。<span style="background:#FFFFA4"><u>神曲の最大の特徴は当時の文学が一部の知識人にしか読めなかったラテン語ではなく、後のイタリア語の源流となったトスカーナ方言、つまり口語体で記述されたことにあります。その結果、知識人はもとより金貸したちの知的欲求に火がつき、さらにその後、15世紀の印刷技術の登場により、文学が都市住民（＝金貸したち）の娯楽＝解脱様式として確立していったのです</u></span>。


<hr size="3" color="#ffaaaa"/><br />
<span style="font-size:130%;">■ダンテが神曲に込めたものは何だったのか</span>

<blockquote>　ダンテは『神曲』で何人もの教皇たちを地獄に堕している。無神論者であったのではない。敬虔なカトリック教徒だった。では、なぜこんなことをしてみせたのか。<br>
※中略<br>
　『神曲』はフィレンツェの政治史であって国家理想をめぐる議論にもなっている。だいたいこの時代はフィレンツェもラヴェンナもナポリも、都市国家なのである。トスカナ地方だけでもいくつもの都市同盟が複雑にむすばれていた。国家理想といえば、このことだ。あるいはキリスト教の「神の国」のことだった。<br>
　そのため『神曲』の随所には、ダンテのフィレンツェ政治やキリスト教社会に対する主張や見解が記述されている。それだけではなく聖人や神学者たちのアドレス（住処）も決定されている。そのなかで教皇が次々に地獄に堕されているわけなのだ。ダンテには教皇を堕しめる理由があったのである。<br>
　まずもってはっきりさせておかなくてはならないのは、ダンテはプラトンよろしく政治家をめざしていたということだ。それとともに、これもプラトンそっくりなのだが、フィレンツェを追放された挫折者でもあったのだ。<br>
<a href="http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0913.html">※松岡正剛の「千夜千冊」</a>より
</blockquote>

ダンテによって地獄に堕ちた教皇の代表は彼をフィレンツェから追放したボニファティウス８世である。このように<u><span style="background:#FFFFA4">政治批判に留まらずローマ教皇や皇帝すら地獄に堕とす記述は、新興勢力の金貸したちの反権力意識を正当化させていきました</span>。</u>さらに<u>教会の権力を否定する根拠として人間主義・聖書主義を唱え</u>、その後のルネサンス芸術や宗教改革に大きく影響を与えています。

<blockquote>ダンテは天堂界（＝天国界）第二十四曲で聖ペテロに信仰の根拠を問われて、新約・旧約の遼聖書と述べている。<u>信仰の根拠をローマ教会ではなく、聖書それ自体にもとめたこと、それは人間の行為の基準を自由意志に求めたことと共に、宗教改革を先取りするものといえる</u>。<br>
※清水孝純「ルネサンスの文学」講談社学術文庫</blockquote>


<hr size="3" color="#ffaaaa"/><br />
<span style="font-size:130%;">■恋愛至上主義の萌芽</span>

神曲にはもう一つキリスト教から逸脱し、人間主義を表したものがあります。
それは<u>一人の女性を神格化し、絶対的な愛を表現</u>したことです。
女性の名はベアトリーチェ。ダンテは9才で一目惚れし、その後18才に再び出会い（すれ違っただけで）、熱病に冒されたごとく恋焦がれました。しかし、ストーカー的偏執狂の恋愛観を持つダンテは、ベアトリーチェから挨拶すら拒まれ失恋してしまったのです。
それでもダンテは諦めません。その後、互いに別の相手と結婚し、24才で死別した彼女への愛を美化し、ダンテは神曲の「天国界」に描いたのです。

<center><table><td>
<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7.html','popup','width=233,height=312,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img alt="%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7.jpg" height="224" /></a><a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%AD%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%AD%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7.html','popup','width=337,height=459,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img alt="%E3%83%AD%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7.gif" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%AD%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7.gif"  height="224" />
</a>
</td><tr><td>
<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF.html','popup','width=220,height=155,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img alt="%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF.jpg" width="220" height="155" /></a>
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多くの芸術家が描いた「ベアトリーチェ」<br>
作者は左上から「サルバドール・ダリ」「ダンテ･ゲイブリエル･ロセッティ」「ウィリアム･ブレイク」「ギュスターヴ・ドレ」
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<br><br>
しかし、カトリックの教義を超えたその恋愛観念は、その後、人間主義者たちが自由な性愛を表現しはじめたことに繋がっていきます。

最も早いダンテの理解者、賛美者として登場したのは、ダンテより約50才年下のボッカッチョです。彼もまた、金貸しの子として生まれフィレンツェで成長しました。彼は神曲の原題「Commedia（喜劇）」を「La Divina Commedia（神聖喜劇）」と神聖化し、後の世に広めたのです。

ダンテが神曲ではキリスト教の枠組みを用いて間接的に教義や教会の枠を超えた表現をしたのに対し、ボッカッチョは「デカメロン」で、神曲を意識しながらも神話ではなく現実に近い話として、俗的な不倫や修道院の性愛を直接的に表現し、ルネサンスの人間主義の扉を開きました。

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このようにダンテの登場は<span style="background:#FFFFA4"><u>金貸したち都市住民に文学を解脱様式として定着させ、反権力、脱カトリックの正当化や、それらの根底のエネルギーである「性愛」を美化させ加速していったのでした</u></span>。
また、<u>ダンテもボッカッチョも金貸し自身から登場</u>したことも注目されます。

「近代市場の成立過程」シリーズ第三弾、今回はルネサンスの先駆けダンテを紹介しました。
次回は、その後フィレンツェの金貸しの主役となり、ルネサンス芸術を花開かせた「メディチ家」の勃興期を取り上げます。
お楽しみに。]]>
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   <title>脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち（１５）江戸期の経済学者その２（安藤昌益）</title>
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   <published>2012-05-02T14:34:56Z</published>
   <updated>2012-05-06T15:09:35Z</updated>
   
   <summary>前回は、江戸末期の自然災害と都市の市場経済に痛めつけられ、疲弊した農村・藩財政を立て直していった、二宮尊徳をみてみました。立て直しの方策／報徳仕法（至誠・勤労・分度・推譲）の教えにより、明治期の農業・農村振興へと繋げた経済思想・実践思想を確認しました。脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち（１４）江戸期の経済理論家その１（二宮尊徳）今回は、農村共同体への回帰を理想とし、時の特権階級（武士、学者、僧侶･神官）と支配思想（仏教、儒教、神道）を徹底的に批判し、東北の片隅で、自然の世を理論化した安藤昌益を紹介します。１．謎にみちた安藤昌益の略歴２．支配階層、支配思想への徹底的批判３．直耕こそ理想、原始生産体（農業生産体）への回帰思想いつも応援ありがとうございます。本文にいくその前にクリック！ ...</summary>
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      <name>leonrosa</name>
      
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      <![CDATA[前回は、江戸末期の自然災害と都市の市場経済に痛めつけられ、疲弊した農村・藩財政を立て直していった、二宮尊徳をみてみました。立て直しの方策／報徳仕法（至誠・勤労・分度・推譲）の教えにより、明治期の農業・農村振興へと繋げた経済思想・実践思想を確認しました。<br><br><a href=" http://www.financial-j.com/blog/2012/04/001856.html" target="_blank">脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち（１４）江戸期の経済理論家その１（二宮尊徳）</a><br><br>今回は、農村共同体への回帰を理想とし、時の特権階級（武士、学者、僧侶･神官）と支配思想（仏教、儒教、神道）を徹底的に批判し、東北の片隅で、自然の世を理論化した安藤昌益を紹介します。<br><br><span style="background:#FFDBA4"><span style="background:#FFDBA4">１．謎にみちた安藤昌益の略歴</span></span><br><span style="background:#FFDBA4">２．支配階層、支配思想への徹底的批判</span><br><span style="background:#FFDBA4">３．直耕こそ理想、原始生産体（農業生産体）への回帰思想</span><br><br>いつも応援ありがとうございます。本文にいくその前にクリック！<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1341306" target="_blank"><img src="http://www.financial-j.com/blog/pic/banner_04.gif" width="80" height="15" border="0" alt="ブログランキング・人気ブログランキングへ"></a> <a href="http://economy.blogmura.com/" target="_blank"><img src="http://economy.blogmura.com/img/economy80_15.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 経済ブログへ" /></a><br><br>]]>
      <![CDATA[<span style="background:#FFDBA4"><b>１．謎にみちた安藤昌益の略歴</b></span><br><br>安藤昌益の主著である「自然真営道」は、明治３２年（１８９９年）に時の第一高等学校（戦後の東京大学教養学部・駒場）校長である狩野享吉氏によって発見された。『自然真営道』校本の刊行は、江戸中期の１７５３年（宝暦３年）であるから、１５０年間の空白期間がある。そのためもあって、安藤昌益の略歴は、不明な点が多い。<br><br>そこで、推測を含めて略歴を記述している『安藤昌益の世界』（石渡博明著、２００７年草思社発行）から、安藤昌益の略歴を追ってみます。<br><br><span style="background:#FFFFA4">◇誕生の地・大館</span><br><br>安藤昌益は、元禄１６年（１７０３年）羽州秋田比内二井田村（現在の秋田県大館市二井田贄の里）の草分け百姓の安藤孫左衛門家のおそらく次男として生まれた。<br><br>　　<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki042.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki042.html','popup','width=618,height=503,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki04-thumb.jpg" width="371" height="302" alt="" /></a><br>　　　大館盆地<br><br>大館は、ブナの原生林・白神山地を北に、東を奥羽山脈、西を出羽山地に囲まれた、米代川中流の盆地である。安藤家の先祖を遡ると、平安時代の中期に入植し、稲作を開始した家系でもある。<br>安藤昌益の幼名は分っていないが、少年時代はよく遊び、よく学ぶ少年だったと推察されている。当時の大館盆地は、京都の伊藤仁斎・東涯親子の堀川学派とのつながりが強く、農家の出であっても、次男なので、昌益少年は１５歳の元服前後に京都へ上がったと思われる。<br><br><span style="background:#FFFFA4">◇京都での禅林修行、仏門離脱、医学修行</span><blockquote>京都へ上がった少年昌益は、仏門おそらく禅林（禅宗の寺）に身を寄せ、悟りを開くべく修業に励んだ。ところが、自らの解脱の体験を「気のうつろいにして・・・・・いまだ愚の病」、錯覚であったと否定したばかりか、「禅法の悟りといえることは、はなはだ私の妄失」と捉え返すことで、仏門における修行そのものを否定してしまった。</blockquote>また、表は女人禁制だが、裏に回れば稚児や若衆の男色がはびこり、仏法を説きながら、お布施を強要し、寄生生活を正当化する逆立ちした教説に背を向けたのである。<blockquote>仏門での経験にあらわれた倒錯性、仏教の教えに見られる虚妄性の数々が、昌益に仏門からの離脱を促したものと思われる。</blockquote>仏門を去った青年昌益は新たな人生を医学の道に求め、どのような伝手によってかは不明ながら、味岡三伯の門を叩いた。<blockquote>味岡三伯は、三代にわたって、「医学講説」とか「医学講説人」として、医学の基礎理論の講義に秀でた医家であった。講義は、漢方医学の基礎理論である運気論を講じていた。<br><br>運気論とはその名の通り、この宇宙には目に見えない「気」が充満して「運」行しており、その気の離合集散・消長によって万物が生成され、生成した万物の内部にも気が運行し、そのことによって森羅万象が営（いとな）まわれるとする論で、一般には「陰陽五行論」として知られている。

医学を学んでいた昌益は、享保２０年（１７３５年）に子息をもうけているので、その何年か前に、京都で結婚したものと見られる。</blockquote><span style="background:#FFFFA4">◇思想展開の場・八戸</span><br><br>壮年期にさしかかった昌益は、享保元年（１７４４年）、奥州南部八戸藩の城下町に住むこととなる。今でも八戸市の中心街である十三日町の一画、八戸城下町の一等地に、借家ではなく自身の持ち家住まいとして居を構え、町医者として暮らすようになる。昌益４１歳の時である。<br><br>昌益は、八戸で講和をしていたようで、その講和が武士や文化人から称賛されている。<blockquote>天聖寺住職・守西上人の「詩文聞書記」によれば、天聖寺において数日にわたって講演を行ない、人々に感銘を与えたという。「道の広きこと天外にも、なお聞えん。徳の深きことを顧みれば地徳も、なお浅し。道徳無為にして衆人に勧め、実道に入らしむること、古聖にも秀でたらん者なり」と。

つまり、教養豊かで人徳が高く、怠惰に流れやすい人々を無意識のうちに矯正させる非常に影響力の大きい人物で、古の聖人をも凌ぐほどであると、ほとんど手放しといってもよいほどの高い評価である。</blockquote><blockquote>こうした評価に対して、社会の底辺で誠実に生きる人々への共感を、十種類もの魚の名を折り込んだ漢歌風のざれ歌や和歌に詠み込んでいる。

「人のあか　ほどにわが身の　恥ずかしく　風呂鍬(ガ)の火たき　見るにつけても」（この私は皆に先生などと持ち上げられてはいるが、実は人の垢（アカ）にも比すべき存在で、社会の寄生虫にすぎないのではないか。鍬（クワ）は日々、農民の耕作に役立ってだけでなく、使い古された後も、柄は風呂の火焚きに使われ、最後まで人々の役に立っているというのに）といったものである。</blockquote>安藤昌益の最初の刊本は、宝暦三年（１７５３年）の「自然真営道」三巻である。伝統的な陰陽・五行論に基づく医学理論や自然認識、自然理解が誤りであることを訴え、聖人批判を行なった書である。昌益５０歳である。<br><br>この出版に際し、当時の幕府・朝廷が合作する『暦』に対して、「今の暦は、国々・耕農・自然の気行に相合う（あいかなう）こと無し」と記述しているため、削除・変更を余儀なくされた。時の権力と学者による出版弾圧を受けたのである。<br><br>こうして、出版統制という形で封建社会の抑圧を肌で実感した昌益は、伝統教学の虚妄性、封建社会の矛盾への批判を、さらに徹底させてゆくことになる。それが『統道真伝』であり、『学問統括』である。<br><br><span style="background:#FFFFA4">◇終焉の地・大館</span><br><br>宝暦六年（１７５６年）、兄が亡くなり、二井田の安藤家を継ぐべく大館に活動の場を移していく。安藤昌益５３歳である。<br><br>安藤家は、養子をとり家業を任せた。<blockquote>そして、自身は、医師として村人の治療に当たり、村人の話を聞いたり相談に乗ったりするなかで、自然真営道の神髄を、野良で、囲炉裏端で、村人に説いてまわった。

「自然界に耳を傾け、自然界の理法にしたがって生き、社会を支えている農民こそがこの社会の主人公であり、なにも神仏を崇めたり神仏にすがる必要はないのだ」と。</blockquote>安藤昌益は、宝暦１２年（１７６２年）に病死する。享年６０歳である。<br><br>二井田の村人は昌益を慕っていたので、「守農太神確龍堂良中先生」の石柱を建立します。また、三回忌には、酒と魚で昌益をしのぶ宴会を行なった。<br><br>生前の昌益に批判されていた神社の神主と寺の僧侶は、「勝手に神にするのはけしからん」、「精進料理を守らない不信心もの」として、石柱の撤去を命じ、関係者の追放を画策します。
それに対して、村人は石柱の撤去には応じますが、その「碑文」は紙で密かに残しています。また、関係者の村からの追放は実質を行なわれませんでした。<br><br>安藤昌益は、その思想原理である『農村共同体』の中に、没していったのです。<br><br>　　　<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki03.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki03.html','popup','width=230,height=332,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki03-thumb.jpg" width="162" height="232" alt="" /></a>　<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki012.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki012.html','popup','width=351,height=500,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki01-thumb.jpg" width="163" height="232" alt="" /></a><br>　　　　『安藤昌益の世界』と『安藤昌益全集二　自然真営道』<br><br><span style="background:#FFDBA4"><b>２．支配階層、支配思想への徹底的批判</b></span><br><br>安藤昌益の支配階層、支配思想への批判は、「統道真論」でより先鋭に展開される。それを、現代語訳で書かれている、『日本の名著１９　安藤昌益』（中央公論社　昭和４６年刊）から紹介します。<br><br><span style="background:#FFFFA4">◇儒教批判</span><br><br>＜五常は皆失（あやま）り＞『仁の誤り』<blockquote>いわゆる五常とは、仁・義・礼・智・信である。聖人は仁をもって下民にめぐむといわれる。私の誤りのはなはだしいものであって、笑うべきことである。聖人は耕さずに衆人の直耕、天の生業たる穀物を貪食し、口説をもって直耕という天職にしたがう天子たる庶民をたぶらかし、自然天下を盗んで上に立ち、王と号した。

だから自分の手によっては一粒も一銭も出すことなく、自分の所有物というものを何一つ持たぬ者が聖人なのである。それなのに、いったい何を施して民にめぐむことができるというのだろうか。

だから笑うべきなのである。民の直耕を貪り奪った上でこれを民に施し、これをもって仁と称するのであるから、たいへんな了見ちがいといわなくてはならない。</blockquote><blockquote>また、税を少なくすれば民に施すことになるから、これをもって民にめぐんでいるのだと称するのは、逆賊の言い草である。

乞食は人々の施しをするのを持ってこれを貪り食うけれども、施し物がないときには餓死はしても盗みをはたらいたりはしない。

聖人は庶民の直耕を貪り奪ったり、税が得られなかったりすると、すぐ兵乱を起こしてこれを攻め取る。命令に背く者があると罪もない庶民を殺す。いったいこれが仁徳の政であるなどといえようか。</blockquote>儒教の「仁」は、何も生産しない（直耕しない）聖人が、自然の恵みを引き出す農民・農村に寄生し、奪うためのたぶらかしの理屈であると強く批判しています。<br><br><span style="background:#FFFFA4">◇仏教・釈迦批判</span><blockquote>『釈迦の説法は穀物の大切さを教えない』

この穀物は、自然宇宙が一瞬の休息も間断もなく連回し、施行して、妙気をつくし、中土に感合したところに生じたものである。だから、自然の無始無終の宇宙の連回する気行は、すなわち自然の直耕なのである。・・・・直接に穀物を耕作する人間は真人である。耕さずに貪食する者は、道を盗む大罪人である。

天下の何万人という人間はただ一つの直耕人間である。だから自然の人間は、上もなく下もなく、王もなく民もなく、仏もなく迷いもなく、すべて二別というものがない。だから、自然なのである。

悉達（釈迦）はこのことを知っていたので、王は自然にあることのない道の盗人であるとして、王位を捨て、出家となった。

ひとりで耕して自然とともに道を修めるかと思えば、もってのほかにも自然の道を盗み、耕さず乞食をして貪食し、弁舌たくみに人々に尊敬されようと欲し、同気の者をたぶらかして弟子とし、後には弟子たちに布施を貪らせて自分はそれを貪るために歩行をすることをやめ、高座に上って舌頭をとろかして貪食を重ねた。

これは自然の耕道を盗む最初の誤りである。この第一歩からしてすでに誤っているので、釈迦の一生４９年のあいだ説法したうち、穀精は人間であり、耕きない者は罪人であると説いたことはだだの一度もないのである。

人間は穀物を食わなければ死んでしまうのであるから、説法はおろか、仏も悟りもあったものではない。釈迦をはじめとして、だれでも穀物を食わずに一言でも口にできるものがいるであろうか。</blockquote>釈迦は、盗人である「王」を捨てたが、その代わりに修行と説法というもう一つの「貪食の道」に入ってしまったと批判します。<br><br><span style="background:#FFFFA4">◇武士階層への批判</span><blockquote>＜四民を立つるの失（あやま）り＞『士があるから乱世がはじまる』

四民とは士・農・工・商である。これを制したのは聖人の大罪であり、大失敗である。士とは武士である。君の下に武士の身分を立てて庶民の直耕の所産たる穀物をむさぼり、もしも気が強くて違背に及ぶ者があったときには、武士が大勢でこれを取りひしぐことができるようにこれを制したのである。

また聖人の命令に背き、徒党をなして敵対する者には、この武士をもって討伐する。この用途も兼ね備えている。これは聖人がもともと自然の天下を盗んだものだから、他人からせめられることを恐れてのことである。

果せるかな、伏義（ふくぎ）が君主となって上に立ち、妹の、女媧（じょか）氏にいたって戦がはじまり、天下がおおいに争乱した。それ以来、乱世が絶えることなく続き、万々歳経た後世になってもなお、自然の天下を盗むことがやまないので、兵乱もやまないのである。すべて聖人の罪である。</blockquote>君主が天下を盗み、その盗みを守るために武士という身分が存在する。君主と武士が存在するから乱世が続いてきたと批判します。<br><br><span style="background:#FFFFA4">◇農・工・商をどう捉えているか</span><br><br>昌益は残りの身分をどう捉えているでしょうか。<blockquote>＜四民を立つるの失（あやま）り＞

『農民は自然の天子である』

農は直耕・直織、食を安んじ、衣を安んずる無欲無乱の自然の天子である。だから、貴くもなければ賤しくもなく、上でも下でもなく、賢くもなければ不肖でもなく、自然宇宙に応じた私のないものである。

『工匠は無用の長物である』

工は工匠、諸種の器財を作ることを生業とするものである。この身分をもうけた聖人は、美しい家や城郭を建てるために、諸器財を自由に入手するために、美しい衣服や美食で華美をつくすため、軍用品のため、いずれも自分を利するためにこれを兼ね用いるのである。

もしも、聖人が世に出ることがなかったら、どんなによかったことだろう。天下万国ともに、人々は直耕し、直接自分で家を建て、直接自分で器物を製作し、無益の奢り・飾りをせずに、乱も患いも知らず、宇宙と生死をともにすることができたであろうに。

『商人は社会の敵である』／『金銀を通用させた誤り』

商人とは諸物を売買するやからである。諸物の売買は天下の通用としたこともまた、これを制度として立てた聖人の大罪である。

（この後に、火・木・水・土・金の考察があり、『金』だけは、自然の土中に隠れているものだという。）

しかるに聖人は山中の金を掘り出し、金・銀・銭を鋳て、これを天下に通用させた。これ以来、世界万国で金ある所を穿ち掘り、金を宝とするようになったのである。

この金を用いて諸物にかえ、自分の欲する物を足らせる。そこで上下の万人が金さえ得れば身の望み、歓楽を達しやすいものだから、一命に代えてもと金を惜しむ世の中になる。

人性にそなわっていたはずの自然真の清浄の神、正真の心も金銭の欲望のためにかき乱され、真性を失う迷妄の世になってしまったのである。</blockquote>昌益は、直耕し、衣を織り、器物を製作し、自分で家を建てる『自給自足』を人間の真性としますので、工匠も商人（貨幣）も、聖人が作り出した不要のものであると批判します。<br><br><span style="background:#FFDBA4"><b>３．直耕こそ理想、原始生産体（農業生産体）への回帰思想</b></span><br><br>安藤昌益の思想に共鳴する門人達が、八戸を中心に少数だが存在した。そして、昌益と門人達の間で、世直しについての実践方法が論じられる。『安藤昌益の世界』（石渡博明著）からみてみます。<br><br><span style="background:#FFFFA4">◇世直しを導く「自然真営道」</span><blockquote>昌益は、歴史の進展は「自然世－法世－自然世」にあるとして、来るべき未来社会・理想社会の実現を心底願っていた。そして、また、それは実現できるとも考えていた。

社会が自然の産物ではなく、人間が作りだしたものである以上、人間の手で作り変えられないわけがないからである。昌益はそれを家屋の建て替え、立て直しになぞらえ、自らの著作「自然真営道」を建て替えのための不可欠の道具として位置付けている。</blockquote><blockquote>昌益は、聖人・釈迦の出現以来、世々の聖人・賢人や諸宗派の開祖らが作り上げ、膨大な書物・学問で正当化された眼前の社会を歪んだ家と見立て、そうした歪んだ家を毀し、改め作るには、どうしても新しい楔（くさび：家を建てる際の要）、新しいものの見方・考え方、すなわち「自然真営道」を人々の心の内に、まずは打ち込まなければならないと考えた。</blockquote><span style="background:#FFFFA4">◇実践方針「契（かな）う論」</span><br><br>「契（かな）う論」とは、「私法盗乱の世にありながら自然活真の世を契う論」といい、昌益一門による全国集会での討議の産物、過渡期の方針である。<br><br>門人達の質問に対して、「上に立ってはならない、統治しようなどとしてはいけない、政治にかかわってはいけない、自分を、人間性を見失うことになるからと」繰り返し説いていた昌益が、門人達の再三の問いに対して、政治参加について口を開き、世直しの具体的方針が提起されたのである。<blockquote>上に立つものは、本来、公共のものである土地を私物化しているわけだから「領田を決め」、つまり領有地を制限し、余った土地を解放する。そして、解放した土地を、遊民をはじめとして、下々にあって耕作地がないために直耕に携わることのできなかった人々に「相応の田畑を与え」、その上で双方ともに直耕させようというのである。

どのようにして直耕に携わせるのか。「これを諭して」である。僧侶・修験・社人・歴家・天文家などの口舌の徒に対して、「これを諭して耕さしむ」といった文言が繰り返される。いわば、説得によってである。</blockquote><blockquote>全員の直耕

では、「契（かな）う論」で描かれた世界、昌益一門にとっての準理想社会とは、いかなるものであっただろうか。

残念ながら、理想社会でないことの最大の問題として「上下」の階級は依然として存在する。しかし、上にあった者も土地の所有は一族の生活を賄うだけに限られ、自ら耕作に携わった収穫で一族の生活を立てていかなければならない。年貢（税）の徴収は禁じられ、家臣の数も制限され、領有地の多くは手放さなければならない。住居も帝城・宮殿というような屋敷は無用、町家並みの造りに限られる。ただし、衣服は下々と違って木綿でもよしとされる。山海の美味・珍味、贅沢な遊芸、妾を囲うことは禁止される。

武士も、職人も、商人も、遊民・学者・宗教家も、解放された土地が与えられ、耕作に携わる。なお、職人は贅沢品の製作は禁じられるが、生活用品の製作は当然のこととして認められる。人の生命をあずかる医者は、「互性の妙道を知る」ことが前提とされ、医者の家族もまた耕作に携わる者とされる。

わずか一行ではあるが、「盲人」についての言及もある。盲人に対しても、単に一族が養育するだけでなく、盲人自身に石臼を挽かせて直耕の一端を担わせ、直耕に参画させることで自然界の一員であることを実感させよというのである。</blockquote>万人の「直耕の世」の在り方を、具体的にイメージしている。また、都市を離れた住民のために、「山里、平里・海里の建設」の方策も議論されている。<blockquote>そして、上に立つ者の唯一な政事は、人々が直耕に励んでいるか、直耕を怠る者がないかの監視に限られ、地域の秩序は村人の自治「邑政（ゆうせい）」に委ねられる。

こうした社会が何年も続いていけば、やがては自ずと「自然活真の世」に帰着するであろうというのが、昌益一門の世直し案＝「私法盗乱の世にありながら自然活真の世を契（かな）う論」の中身である。</blockquote>古来の人間は、万人が直耕（生産）するものであり、法世（儒教や仏教によって統治される世）、貪食の徒、寄生者がはびこる世から、再度、直耕の世へ戻る定めにあると看破します。すべてが直耕（生産）に従事する共同体（邑・むら）を理想とし、そこに向かう方針を提起しています。<br><br><span style="background:#FFFFA4">私権の圧力が衰弱し、支配思想が瓦解しようとしている現代こそ、安藤昌益の自然観、社会観から汲み取るものが沢山あると思います。</span><br><br>　　<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki02.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki02.html','popup','width=350,height=233,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/shoueki02-thumb.jpg" width="350" height="233" alt="" /></a><br>　　　八戸の安藤昌益資料館１階展示室<br><br>前回扱った二宮尊徳と今回の安藤昌益をみることで、江戸期の日本人の思惟と思想の高さを再認識できると思います。<br><br>江戸期の二人の思想家でもって、シリーズの個別思想家編を終えます。<br><br>次回は、このシリーズの総集編です。どんなまとめになるか楽しみにしていて下さい。<br><br>]]>
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   <title>近代市場の成立過程（２）～近代市場の誕生前夜・富豪の台頭⇒現代通貨制度の原型が形成される～</title>
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   <published>2012-04-29T09:40:09Z</published>
   <updated>2012-05-01T06:27:16Z</updated>
   
   <summary> 　 「近代市場の成立過程」シリーズ第二弾です。 　 近代市場の成立過程（１）プロローグより ＞歴史上、近代市場の主舞台は言うまでも無く西欧。その原点は、十字軍の遠征によってイスラム世界とヨーロッパ世界の力関係が逆転し、ルネサンスが興った１１～１５世紀頃にあると考えられます。 　 これを踏まえ、今回は、十字軍遠征の前後の状況を押さえ、その過程でどのような変化が起こったのかを明らかにしていきたいと思います。 　 　 いつも応援ありがとうございます！  ...</summary>
   <author>
      <name>nishi</name>
      
   </author>
   
   
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      <![CDATA[<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/800px-Collage_Firenze.jpg"><img alt="800px-Collage_Firenze.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/800px-Collage_Firenze-thumb.jpg" width="480" height="365" /></a>
　
「近代市場の成立過程」シリーズ第二弾です。
　
<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/04/001851.html">近代市場の成立過程（１）プロローグ</a>より
＞歴史上、近代市場の主舞台は言うまでも無く西欧。その原点は、十字軍の遠征によってイスラム世界とヨーロッパ世界の力関係が逆転し、ルネサンスが興った１１～１５世紀頃にあると考えられます。
　
これを踏まえ、今回は、十字軍遠征の前後の状況を押さえ、<span style="color:#ff3300;">その過程でどのような変化が起こったのか</span>を明らかにしていきたいと思います。
　
　
いつも応援ありがとうございます！
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      <![CDATA[　
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<strong>■ 北イタリアを拠点とした両替商の広域ネットワーク</strong>
十字軍遠征の前夜の状況として押さえておきたいのが、<span style="color:#ff3300;">両替商の広域ネットワーク</span>です。北イタリア諸都市(ジェノヴァ、ヴェネツィアetc)は、それ以前からすでに交易都市の拠点として栄えていました。
　
ローマ教皇による徴税制度<span style="color:#ff3300;">「十分の一税」</span>が、それを両替商の広域ネットワークへと発展させることになります。
　
<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/421px-Emblem_of_Vatican_City_State_svg.png"><img alt="421px-Emblem_of_Vatican_City_State_svg.png" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/421px-Emblem_of_Vatican_City_State_svg-thumb.png" width="200" height="284" /></a>
※ローマ教皇紋章
　
旧西ローマ帝国および西ヨーロッパ世界では、8世紀前半までには生産物の１０％を教皇に収める慣習が根付いていました。
これに目を付けた<span style="color:#ff3300;">イタリアの両替商</span>は、農業生産性が上がった11世紀頃からイングランド・フランドル・シャンパーニュなどヨーロッパ経済の先進地帯や主要都市に進出をして、<span style="color:#ff3300;">十分の一税の徴税・輸送業務や為替業務</span>をも合わせて行うようになります。（<span style="background:#C8FFFF">これが後の銀行業の母体となります。南ドイツのフッガー家や北イタリアのメディチ家は、両替商から銀行家へと発展した典型例です</span>）
　
これによって、それまでの交易ネットワークに加え、<u>北イタリアを拠点とした両替商(金融)のネットワークがヨーロッパ主要都市に発展していきます。</u>
　
<hr size="3" color="#ffaaaa"/>
<strong>■ ローマ教皇権力絶頂期⇒十字軍遠征の開始</strong>
この頃になると、ローマ教皇の権力は強大なものとなり、戴冠によって神聖ローマ皇帝を任命するようになりました。教皇と神聖ローマ皇帝の権力が拮抗し、<span style="color:#ff3300;">教皇と皇帝との間での権力闘争</span>が頻発します。
その後の叙任権闘争etcを経て、<span style="color:#ff3300;">教会権力は絶頂</span>に達します。「カノッサの屈辱」は有名な事例ですね（教皇が皇帝ハインリヒ4世を破門し王位を剥奪⇒ハインリヒ4世が教皇に許しを乞うため北イタリアのカノッサを訪れた）。
　
<img alt="%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%B5%E3%81%AE%E5%B1%88%E8%BE%B1.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%B5%E3%81%AE%E5%B1%88%E8%BE%B1.jpg" width="250" height="301" />
※カノッサの屈辱
　
　
　
一方で、東ローマ帝国はイスラム圏セルジューク朝からの度重なる侵略に頭を抱えている状況にありました。そこでこの時の皇帝アレクシオスは、<span style="color:#ff3300;">ローマ教皇に傭兵の提供を要請</span>します。
それを受けたローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年、大義名分として異教徒イスラム教国からの<span style="color:#ff3300;">「聖地エルサレムの奪還」</span>を訴え（目的を摩り替え）、キリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけます。
　
<span style="background:#C8FFFF">「聖地エルサレムの奪還」という大義名分によって正当化されたこの十字軍遠征⇒ユダヤ・イスラム圏への略奪戦争は、その後約200年間に渡り9回も繰り返されることになります。</span>
（この大義名分で戦争を正当化する手法は、「民主主義」を掲げ戦争を正当化する現在の米国と全く同じ構造ですね）
　
<img alt="%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%81%A8%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%81%A8%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D.jpg" width="400" height="290" />
※イスラムと十字軍
　
　
その結果どのような状況が生まれたのでしょうか。
　
<hr size="3" color="#ffaaaa"/>　
<strong>■ 金融ネットワークが東方に拡大⇒北イタリアに財が集積</strong>
この9回にも及ぶ十字軍遠征により、陸路・海路の中継点となった北イタリアの諸都市(ミラノ、ヴェネツィア、ジェノバ)は仲介貿易によって大きく繁栄。
　
特に<u>王の支配を受けない自治都市の一つでローマ教皇庁の財政を一手に処理していたフィレンツェでは、元々の金融ネットワークを東方にも拡大し、<span style="color:#ff3300;">十字軍遠征によって略奪した財を集積</span>していきました</u>。（13世紀はじめには20人を超える大富豪家が誕生していたようです）
<img alt="imagesCAEXI2C2.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/imagesCAEXI2C2.jpg" width="275" height="183" />
※フィレンツェ
　
　
<hr size="3" color="#ffaaaa"/>
<strong>■ 通貨発行⇒貨幣経済の浸透</strong>
さらに各富豪が<span style="background:#C8FFFF">通貨発行権を手に入れ、自らの金融ネットワークを駆使して通貨を流通させることにより、北イタリアを中心に欧州主要都市で貨幣経済が浸透していきます。</span>これにより、流通を司る富豪たちが教皇を凌ぐほどに力を持つようになっていきます。富豪たちが政権に入り込むetc影響力を持つようになったのもこの頃です。
　
特に7世紀頃から鋳造されていた<span style="color:#ff3300;">フィレンツェ共和国発行のフローリン金貨</span>は、西ヨーロッパにおける大規模な取引で優位に取引できる金貨として急速に浮上し、<span style="color:#ff3300;">欧州の主要な基軸通貨</span>となっていきました。<u>このようにして現在の中央銀行、基軸通貨制度の原型が形成されます。</u>
　
<img alt="%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E9%87%91%E8%B2%A8.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E9%87%91%E8%B2%A8.jpg" width="500" height="247" />
※フローリン金貨
　
　
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以上、200年に渡る十字軍遠征により生じた状況変化をまとめます。
　
　<strong>１．東欧、イスラム圏への交易・金融網の拡大
　２．イスラム圏から収奪した財が北イタリアに集積(欧州・イスラムの力関係の逆転)
　３．集積した財を元に通貨発行⇒貨幣経済の浸透
　４．財⇒通貨発行権を持つ財閥の台頭
　５．現在の中央銀行、基軸通貨制度の原型が形成される</strong>
　
　
この過程を経て誕生した富豪(金貸し)たちが中心となって、次のルネサンス全盛の時代に入っていきます。
　
次の記事では、このルネサンスの幕開け的事象であり、知識階級の公用語であるラテン語でなく、トスカナ地方の日常語（大衆向けの言葉）で書かれた書物という点で革新的であった、フィレンツェ出身、ダンテの『神曲』を扱います。
　
ご期待ください。
　
　]]>
   </content>
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   <title>【戦国時代の権力需要と市場】　～鉄砲伝来の背後にいた勢力～</title>
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   <published>2012-04-24T09:43:22Z</published>
   <updated>2012-04-24T13:49:41Z</updated>
   
   <summary>「堺が商人の起源である」という前回のプロローグからだいぶ間が空いてしまいましたが、今回から数回に亘って、「戦国時代の権力需要と市場」テーマの皮切りとして、鉄砲伝来シリーズをお送りします。 「江戸時代とは商人がつくった時代」でもお伝えしたように、歴史的に表舞台に立つ徳川家の裏で、商人が暗躍していたという背景があります。本シリーズでは、それより以前の戦国時代、その中でも鉄砲伝来という史実に着目してエントリーをお送りします。 ※写真は種子島　こちら　よりお借りしました 歴史の教科書で習う鉄砲伝来は、（諸説あるようですが）1543年の種子島にその起源があると言われます。それは、江戸時代に書かれた「鉄炮記」（てっぽうき）の記述（種子島当主の種子島時堯が、鉄砲を入手した方法とその後の生産について書かれている）を拠り所にしています。 この鉄砲伝来を契機として、戦国時代下の日本では、鉄砲の生産(供給)と需要が急激に拡大していきます。また戦場での鉄砲の使用は、戦況も一変させ、それまで主力部隊だった騎馬武者は、鉄砲の標的になりやすいため影を潜め、鉄砲隊をふくむ足軽隊へと戦術の変化をもたらしました。1575年・長篠の戦いにて織田信長が勝利したのも、この鉄砲の獲得と無縁ではありません。 本エントリーでは、（一つの伝来ルートとして）種子島に鉄砲が入ってきたという史実、その後の鉄砲拡散の背後にあった構造を明らかにすることで、歴史事象の持つ新たな意味・捉え方を見出していきたいと思います :m042:  ※長篠合戦図屏風（部分）　堺市ホームページ　からお借りしました それでは本文です。              いつも応援ありがとうございます :m030:  ...</summary>
   <author>
      <name>pipi38</name>
      
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         <category term="02.日本の金貸したち" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kane-kasi.com/blog/">
      <![CDATA[<strong>「堺が商人の起源である」</strong>という<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/03/001834.html">前回のプロローグ</a>からだいぶ間が空いてしまいましたが、今回から数回に亘って、<strong>「戦国時代の権力需要と市場」</strong>テーマの皮切りとして、<span style="color:#6666ff;">鉄砲伝来シリーズ</span>をお送りします。
<a href="http://www.financial-j.net/blog/2011/10/001737.html">「江戸時代とは商人がつくった時代」</a>でもお伝えしたように、歴史的に表舞台に立つ徳川家の裏で、商人が暗躍していたという背景があります。本シリーズでは、それより以前の戦国時代、その中でも鉄砲伝来という史実に着目してエントリーをお送りします。



<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E7%A8%AE%E5%AD%90%E5%B3%B6.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E7%A8%AE%E5%AD%90%E5%B3%B6.html','popup','width=285,height=366,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E7%A8%AE%E5%AD%90%E5%B3%B6-thumb.jpg" width="285" height="366" alt="" /></a>



※写真は種子島　<a href="http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_10_21.htm">こちら</a>　よりお借りしました


歴史の教科書で習う<span style="color:#6666ff;">鉄砲伝来</span>は、（諸説あるようですが）1543年の種子島にその起源があると言われます。それは、江戸時代に書かれた「<strong>鉄炮記</strong>」（てっぽうき）の記述（種子島当主の種子島時堯が、鉄砲を入手した方法とその後の生産について書かれている）を拠り所にしています。


<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/jap35q.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/jap35q.html','popup','width=400,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/jap35q-thumb.jpg" width="400" height="300" alt="" /></a>


この鉄砲伝来を契機として、<u>戦国時代下の日本では、鉄砲の生産(供給)と需要が急激に拡大していきます</u>。また戦場での鉄砲の使用は、戦況も一変させ、それまで主力部隊だった騎馬武者は、鉄砲の標的になりやすいため影を潜め、鉄砲隊をふくむ足軽隊へと戦術の変化をもたらしました。1575年・長篠の戦いにて織田信長が勝利したのも、この鉄砲の獲得と無縁ではありません。

本エントリーでは、（一つの伝来ルートとして）種子島に鉄砲が入ってきたという史実、その後の鉄砲拡散の背後にあった構造を明らかにすることで、歴史事象の持つ新たな意味・捉え方を見出していきたいと思います :m042: 


<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/nagashino.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/nagashino.html','popup','width=230,height=451,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/nagashino-thumb.jpg" width="230" height="451" alt="" /></a>



※長篠合戦図屏風（部分）　<a href="http://www.city.sakai.lg.jp/city/info/_kokusai/asia_sea13.html">堺市ホームページ</a>　からお借りしました


それでは本文です。


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      <![CDATA[<strong>◆ポルトガル船が種子島（日本）に漂流したのはなんで？</strong>

ポルトガル船の種子島到着。この<u>史実そのものにも諸説ある</u>ようで、先述の『鉄炮記』（日本側）の記述によれば、１５４３年に「牟良叔舎」(←「フランシスコ」・ゼイモト)「喜利志多佗孟太」(←アントニオ・「ダ・モッタ」)という「南蛮人」と共に漢文で当主時堯と交渉したという明の「王直」がやってきたとあります。
一方で、当時ポルトガルの東南アジアの商館長をしていたアントニオ・ガルバンという人物が書いた『<strong>新旧大陸発見記</strong>』（ポルトガル側の記述）には、『<strong>鉄炮記</strong>』に記載された年よりも１年前の１５４２年、３人のポルトガル人が中国船（ジャンク）に乗って東シナ海の港リャンホーに向かって出向したが台風で遭遇し種子島に漂着した　とあります。（参考：<a href="http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_10_21.htm">橿原日記</a>　より）


ここで着目したいのは<strong>なぜポルトガル船が日本にやってきたのか</strong>という歴史的背景です。


ポルトガルと言えばカトリック国です。<a href="http://www.financial-j.net/blog/2011/07/001663.html">過去のエントリー</a>　でも扱いましたが、当時の欧州は、カトリックとプロテスタント国家とが争っていた時代。植民地支配・市場拡大が真の目的であった宗教戦争において、劣勢となったカトリック国（スペイン、ポルトガル等）が欧州を追われる形となり、欧州以外での布教を目指します。<strong>大航海時代の始まり</strong>です。
そして、スペインが南北アメリカ大陸、アジアのフィリピンを支配するようになり、一方のポルトガルはインド西海岸のゴアを拠点に、中国のマカオを占領して貿易拡大していきます。
<u>つまりポルトガルは、貿易のために日本のすぐ近くまで来ていた</u>ということです。


では記述にある中国はどうだったのでしょう？


<blockquote>ところで当時の倭寇というのは、実質的には中国南部の人々のことで、天草や瀬戸内海の海賊が中国地方に出稼ぎにいっていた初期倭寇の時代とは状況は一変しています。中国王朝が明に変わると、海禁政策といって海外貿易を全面的に禁止したことで、それまで交易で生活してきた人々は、地下にもぐる結果となります。つまり表向きにはご法度になりますから、当局に認可されない形で交易を続ける。貿易、当局に認可されなければ海賊―これが倭寇が発生した原因です。
そもそも海を生活の糧とする人々には、陸のような国境という感覚が希薄ですから、王直などは、長崎の五島列島に住居を置いていたくらいです。彼らにとっては東シナ海全域が、自分の庭のような感覚だったはずです。
そんな彼らが偶然種子島に漂着したとは、考えにくいのです。
<a href="http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscoverofhistory_gun01.htm">【歴史再発見　鉄砲伝来は偶然の歴史的事件でなかった】</a>　より
</blockquote>


当時の中国は明。<strong>国家が貿易を独占するために海禁政策</strong>をとっていました。長年に亘る海禁政策は<strong>密貿易を増大</strong>させ、１６世紀には後期倭寇が中国の沿岸都市を襲い略奪していました。中国の海賊である倭寇もまた、密輸や略奪を目的として海を往来していたのです。

また種子島に来たポルトガル人とコミュニケーションの取れる人物が種子島にいたとも考えにくいことから、その船には漢文で交渉ができる明人が乗っていたと考えられます。つまり、倭寇である「王直」が同乗していたと推測できます。

以上から、<strong>ポルトガル人＋明人の来航は偶発的な漂流ではなく、明らかに当時の日本との通商を目指した渡航であった</strong>と考えられます。


<strong>◆寺院のネットワークによって実現した鉄砲の大量生産</strong>

種子島の当主、種子島時堯は乗船していたポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが所持していた鉄砲に着目。<strong>金２，０００両</strong>(現在の価値では２億円?!とも言われる)もの大金を支払って銃２丁を譲り受け、使用法を教わりました。そして、鉄砲（火縄銃）の威力を知った時堯は、種子島在住の鍛冶職人の八板金兵衛清定に命じて、早速その複製を作らせたといわれます（コラム参照）。

ところが、<strong>時堯はこれだけ高額で購入した火縄銃のうち１丁を、薩摩の戦国大名である津田監持（根来寺の僧侶）に献上</strong>しています。そして鉄砲伝来から１～２年後の1544年、この<u>津田監持は鉄砲の大量生産</u>に着手します（<a href="http://www6.plala.or.jp/huurai/kisyu/data/kisyu-rekisi.pdf">紀州歴史</a>　より）。これは一体どういうことでしょうか :m052: 


実はこれには様々な力学が働いていたのです。


<strong>津田監持（紀州根来寺の僧侶）
　｜　
島津家（島津忠良・貴久）
　｜
種子島時尭（種子島領主）
</strong>


の３者に跨る関係性を見ていきましょう。まず種子島家と島津家には以下の関係がありました。


<blockquote>当時の種子島の領主は種子島時尭です。その種子島時尭の妻が忠良の三女にあたります。ですから、島津本家を忠良の息子貴久が継ぐわけですが、その貴久と時尭とは義兄弟の関係になります。
　ところで種子島時尭とその父恵時とは折り合いが悪く、恵時は息子に領地を継がせたくなく、島津氏に領地を差し出し、その配下になろうとします。その事件を貴久がとりなし、種子島氏親子を和解させます。ですから当時の時尭と義兄弟の貴久の間には　一方的に忠節を尽くさなければならないような人間関係ができていて当然です。
</blockquote>


そして、最初の津田監持は、1544年に鉄砲を量産したことで知られる僧侶です。当時数万といわれていた紀州根来の僧兵を抱えていた数ある宿坊のなかでも、中心的な四つの宿坊の中の一つ、杉の坊の頭目だった津田杉の坊妙算の実弟だったということです。

※僧侶といっても、当時は、<strong>知識人(現在でいう大学教授のような位置)・坊主・兵士</strong>という多面的な顔を持っていました。


この根来宗の大物僧侶と主従関係にあったのが島津家です。鹿児島県の郷土史研究家である有川晴海氏の『<strong>異説三州の歴史</strong>』(高城書房)によれば、鉄砲の情報は、まず種子島氏から薩摩島津氏に伝えられ、それから紀州根来へと伝えられたのだとあります。


<blockquote>
<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/teppou_network.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/teppou_network.html','popup','width=500,height=500,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/teppou_network-thumb.gif" width="400" height="400" alt="" /></a>

上の図を見ていただきいたのですが、ポルトガル人が漂着した種子島を中心にして、複雑なネットワークが張り巡らされています。

　まず、近衛家と種子島との関係ですが、これは種子島が大和国に編入された後、興福寺の末寺として809年に種子島に慈遠寺が建てられます。
この時点で、<strong>藤原氏(後の近衛家)と―興福寺―種子島の慈遠寺</strong>というルートが出来ます。後に島津荘が平季基によって開発され、藤原頼道に寄進され、<strong>藤原氏、後の近衛家と島津荘園が結びついていきます</strong>が、種子島も島津荘園の一部として、近衛家を領家として経営されます。当然本所は興福寺となり、その末寺である慈遠寺が、興福寺の種子島支店として、荘園経営の拠点として活動していたことは容易に推測できます。

　次に　島津氏と近衛家の関係は、島津氏の祖である惟宗忠久が、近衛家の執事職にあった人物だつた惟宗広言を養父としているところから、島津忠久は、近衛家の島津荘園管理者としての役割－武家政権下での既得権を温存していくための役割―を負わされていた人物と推定されます。
<strong>島津氏は近衛家の現地荘園管理者として薩摩に入国</strong>して、武家時代に勢力を伸ばして行きます。ここに、島津荘園を廻り近衛家と島津氏との強いルートがあります。

　薩摩の海蔵院という寺院ですが、これは現在の日置市に残されています。この寺は、<strong>島津忠良が少年のころ、この寺の頼増という僧に教育をうけた</strong>ことで、知られている寺院です。島津忠良の本拠亀丸城から数キロの所にあります。この寺院はもともと1398年伊作島津氏第四代の島津久義によって建てられたと伝えられていますが伊作は、薩摩島津荘園の中でも一円荘と呼ばれる中心的場所であり、伊作氏の財政的規模や海蔵院の規模を考えても、興福寺のバックアップあっての建立と考えていいと思います。
伊作一円荘の管理運営という観点からの近衛家の薩摩支店という考え方ができます。スタッフは当然興福寺から派遣されているわけです。
ここに、薩摩半島の海蔵院と伊作島津氏(この島津氏分流が本宗島津家を抑えて近世島津氏発祥の誕生となる)との結びつきは、<strong>近衛家―興福寺―伊作島津氏</strong>というルートが出来上がっているわけです。
　この海蔵院と紀州根来寺との関係ですが、これは紀州山岳信仰によって、興福寺は根来寺と結びついていますから、<strong>興福寺―根来寺―海蔵院</strong>というネットワークが出来上がっています。
島津忠良を教育した海蔵院の頼増という僧は、根来寺の行人方の人物で、根来寺から派遣されてきていたと考えられます。

（中略）

　鉄砲伝来の一報は　すぎさま島津氏に届けられ、そこから紀州根来へと伝えられます。そして本社から重役クラスの人物が薩摩に派遣されてくる。その人物こそ、津田某であると有川氏は喝破しています。

上図と下記文章は<a href="http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscover_teppou_network.htm">「歴史再発見」</a>　から引用させてもらいました。
</blockquote>


つまり、種子島の鉄砲伝来情報は、<strong>種子島時尭→島津貴久→津田監持</strong>へと伝えられ、鉄砲が伝来するや否や大量生産体制に入ったと考えられます。一方で種子島を訪問していた<strong>商人、橘屋又三郎によって、和泉の堺に伝えられ</strong>、その後堺も鉄砲の産地として有名になっていきます。
鉄砲の大量生産の背後には、優れた製鉄業や鍛冶屋といった実現基盤の上に、こうした坊主や商人の人的ネットワーク（≒支配体制）があった点も見逃せません。


<strong>◆鉄砲伝来がもたらしたもう一つの市場～火薬～</strong>

鉄砲の大量生産が実現されたとしても、それだけでは武器として機能しません。鉄砲には「<strong>火薬</strong>」と「<strong>鉄砲玉</strong>」が必要です。戦国時代の日本において、消耗品であるこれらの貿易取引がさらに市場を拡大させていきます。


まず、鉄砲玉の方ですが、当時の玉には鉛が使われていました。一部には国産もあったようですが、近年の戦国史研究にて、<strong>鉄砲玉の鉛には、質量の異なる４つの同位体があり、その比率によってある程度の産地がわかってきた</strong>ようです。
専門家が戦国時代の鉄砲玉を分析した結果、国内産でも朝鮮産でも中国産でもない鉛が約４割あり、それが東南アジアのメコン川流域産だということが判明したのです。


<blockquote>平尾良光・飯沼賢司は、2009 年に「大航海時代における東アジア世界と日本の鉛流通の意義」（『キリシタン大名の考古学』思文閣出版）という論文を共同執筆し、この論文では、歴史資料の研究と鉛同位体分析の研究から、<strong>16 世紀後半から17 世紀前半にかけて、日本に大量の鉛が東南アジア(タイ)、中国から流入したことを明らかにした</strong>。
<a href="http://www.beppu-u.ac.jp/research/files/%E6%96%87%E9%83%A8%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9C%81%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%B2%BB%E3%80%80%E6%88%90%E6%9E%9C%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9C%80%E6%96%B0%EF%BC%888%E9%A0%81%E7%89%88%EF%BC%89.pdf">リンク</a>　より


別府大学の飯沼賢司教授（日本史）は、文献で鉛を探しました。
１５８０年に、戦いで苦境のキリシタン大名を助けるために、イエズス会が鉛を届けたという記録が見つかります。
１６０９年に、オランダ使節が家康に持参した土産には、純金の杯２個、生糸３５０斤、象牙２本と並んで、鉛３千斤が含まれていました。
鉛を通して新たに見えてきた歴史を、両教授は連名で論文にまとめました。

「<strong>鉛が戦国社会を動かした</strong>。経済力を示す精錬、軍事力を意味する鉄砲玉。急激な需要の高まりに、自給できなくなった鉛を、海外から調達するルートを握ったものが戦国の覇者となった。信長や秀吉が貿易の中心だった堺を重視し、ポルトガルなどの商品は東南アジアで鉛を調達し、日本に運び銀を受け取った」
今回の成果について、東京大学の黒田明伸教授（中国経済）は、
「東南アジアでは、１６世紀に鉛の通貨が使われており、鉛の生産が豊富だった。ベトナム南部から積み出し中国を経由した密貿易のルートで運んだのだろう。火薬の原料の硝石も、同じルートでもたらされたと考えていいだろう」
戦国を舞台にした時代小説が多い作家の安部龍太郎さんは、「鉛と硝石を確保しないことには鉄砲が使えず戦争に勝てない。どの戦国大名も輸入には懸命だったはずだが、どうやって入手したのかは記録がないので分からなかった。戦国時代最大の謎と考えてきたが初めて道筋が見えた。興奮を覚える画期的な研究だ」と話されました。
参考：<a href="http://blog.goo.ne.jp/mocha40/e/8f3bd7da29dcf99f11b3cb1fc8d06bab">リンク</a>　より
</blockquote>



一方、「<strong>火薬</strong>」の原料は、硫黄・木炭・硝石でした。このうち硝石だけは国内では取れず、海外からの輸入に頼るしかありませんでした。鉄砲というハコものよりも消耗品である火薬の方が絶え間ない需要があったわけです。


<blockquote><strong>『日本が火薬原料の大きな市場になる』</strong> 
鉄砲には火薬が欠かせない。前にあげた『鉄炮記』に、種子島時尭が家臣に火薬の製法を学ばせたことがみえるが、当時の日本では火薬づくりは容易ではなかった。　硝石（硝酸カリウム）と木炭と硫黄とを一定の割合で混ぜれば火薬はできる。戦国時代の火薬は硝石７５パーセント、木炭１６・７パーセント、硫黄８・３パーセントを混ぜる「９・２・１方剤」の方法で作られたといわれる。
この火薬は、今日線香花火などに用いられる黒色火薬の一種である。黒色火薬に火を近づけると、まず硫黄が勢いよく燃えて高熱を発する。この熱で硝石が分解されて大量の酸素が広がり、本来なら火がつきにくい木炭が、急激な温度の上昇と過剰な酸素によって一気に燃焼して爆発を起こすのである。火薬の原料の木炭は、当時の人々が日常用いるものであり、硫黄は「火山列島」である日本に豊富だった。
ところが、<strong>当時の日本では硝石が採れなかった</strong>。そのためインド産の硝石が大量に輸入されることになった。王直は、鉄砲伝来の五年後（１５４８年）に本拠を中国沿岸から五島列島に移している。彼は鉄砲伝来以前から東南アジア各地に硝石を売り込んでいたが、日本との硝石取引の利益が大きかったために、日本近海に移ってきたのだろう。九州本土から離れた五島列島には、日本の役人の力は及びにくい。しかし、博多などの商人が船を仕立てて五島列島に硝石を買いに来るのは簡単である。王直が、中国沿岸から動かず、日本の商人に「鉄砲というすぐれた武器があるから見に来なさい」という手紙を出したとしても、相手にされなかったろう。彼がポルトガル人をともなって種子島に赴いて、日本人に鉄砲を見せたために、日本で鉄砲が用いられるようになって硝石の巨大な市場がつくられたのだ。（Ｐ１０１・Ｐ１０２）
 
<strong>『火薬の交易を押さえた織田信長』</strong>
鉄砲伝来をきっかけに、種子島と倭冦（海商）の頭目、王直との取引が開始されたと思われる。王直の部下の船によって大量の硝石が種子島に持ち込まれ、それが西国各地の商人に売られたのだろう。<strong>種子島家は、この硝石貿易によって大きな儲けを得た</strong>。そして、種子島から運ばれた硝石の有力な買い手が織田信長ではなかったかと思われる。種子島家は、鉄砲伝来の約百年前の種子島時氏の時に日蓮宗に改宗していた。　
　（中略）　
<strong>信長は、日蓮宗と親しい関係を持ち続けていたわけだが、この日蓮宗の人脈を通じて信長は早い時期に鉄砲の有効性を知り、種子島経由の硝石交易路と結び付いた。信長は京都を制圧して間もなく堺を直轄領としたが、彼の堺支配の動機の一つに硝石交易の独占がある。</strong>九州から輸入品を積んだ船が着く港のなかで、堺はもっとも東方にある。その先には九州と交易する都市はみられない。それゆえ<u>信長が堺を支配して硝石取引を差し止めれば、信長に敵対する堺の東方の大名は火薬をつくれなくなる</u>。武田信玄や上杉謙信は鉄砲を多用しなかったが、それは彼らが硝石を得にくい位置に本拠をおいたことによるものである。

<strong>海外貿易から読む戦国時代</strong>　著者／武光誠
<a href="http://tig.seesaa.net/article/78885653.html">インテリジェンス</a>より</blockquote>



このように鉄砲伝来を契機として、僧侶や商人ネットワークによる鉄砲生産と平行して火薬や鉛の輸入が盛んになっていきます。
表の歴史では、日本の技術生産性の高さや伝来の事実に焦点が当てられますが、<strong>紀州根来や堺に代表される工業都市・商業都市は、このネットワークの拠点であり、鉄砲生産拡大の背後には僧侶・商人ネットワークが存在していたのです</strong>。

次回は、短期間でなぜ鉄砲が大量生産されたのか、その構造に迫ります :m042: 



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<strong>～コラム　たたらの島　種子島～</strong>

当時、鉄の島、“たたら（製鉄）の島”として名を轟かせていた種子島。実は鉄砲の複製を請け負った鍛冶職人の八板金兵衛も種子島出身ではなく、鉄の産地である種子島に移住してきたという経緯があります。よって、種子島には優れた鍛冶屋が多くあったのですが、火縄銃２丁を手に入れたものの、この複製・製造には苦労があったようです。


<a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/hasami_r10_c6.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/hasami_r10_c6.html','popup','width=250,height=150,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/hasami_r10_c6-thumb.jpg" width="250" height="150" alt="" /></a>

　写真は今も種子島に残る伝統鍛冶　「種子島鋏」


それは、銃の尾栓の製法です。のちに「種子島張り」（尾栓の溶接）と呼ばれた工法で、発射後の滓抜きがきわめて困難で、不発・暴発の危険をはらんだ欠陥銃でした。
１５４４年（天文１３年）３月、改めてポルトガル船が熊野浦に入港した際、乗船していたポルトガル人の鉄砲鍛冶から金兵衛はネジの製法を学び、まともな国産火縄銃の製造ができるようになりました。
（ちなみに、正確な資料は残っていないようですが、そのポルトガル人の鉄砲鍛冶師は、ネジの製法を教える代わりに八板金兵衛の娘である「若狭」との結婚を要求したと言われています。もしこれが事実なら、性を媒介にした取引が史実の裏にあったということです）
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   <title>脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち（１４）江戸期の経済理論家その１（二宮尊徳）</title>
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   <published>2012-04-22T12:39:15Z</published>
   <updated>2012-04-23T13:45:53Z</updated>
   
   <summary>前回は、イスラームの経済システムを扱いました。神の代理人としての所有権、労働の奨励と促進（浪費や不労所得の禁止）、財の社会的還流など、神の教えによって自分発の考えを諭し、とことん集団発の思考で経済システムを構築していることが分かります。脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち（１３）イスラム経済（ムハンマド・バーキルッ＝サドル）その２今回と次回で、江戸期の経済理論家として、注目できる経済学者（思想家）を扱ってみます。一人は、江戸後期の農政家・実践思想家の二宮尊徳です。もう一人は、農村共同体への回帰を理想とし、時の特権階級（武士、学者、僧侶･神官）と支配思想（仏教、儒教、神道）を徹底的に批判し、東北の片隅で、農民指導を行った安藤昌益です。まずは、二宮尊徳についてです。江戸後期の冷害と生産力衰退に対して、至誠・勤労・分度・推譲という行動指針（報徳仕法）を指し示し、農村復興を指導した二宮尊徳。その実践思想は、東北・関東から東海にかけて、影響力を持ち、明治前半の富国の基盤をつくり上げていきました。１．江戸期の経済の動き、前半の高度成長期と後半の停滞期 ２．江戸期の経済思想家達は何を論じていたか ３．疲弊した農村復興を実践的に指導した二宮尊徳と報徳仕法 ４．幕末・明治初期の報徳運動いつも応援ありがとうございます。本文にいくその前にクリック！ ...</summary>
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<span style="background:#FFDBA4">２．江戸期の経済思想家達は何を論じていたか</span>
<span style="background:#FFDBA4">３．疲弊した農村復興を実践的に指導した二宮尊徳と報徳仕法</span>
<span style="background:#FFDBA4">４．幕末・明治初期の報徳運動</span><br><br>いつも応援ありがとうございます。本文にいくその前にクリック！<br><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1341306" target="_blank"><img src="http://www.financial-j.com/blog/pic/banner_04.gif" width="80" height="15" border="0" alt="ブログランキング・人気ブログランキングへ"></a> <a href="http://economy.blogmura.com/" target="_blank"><img src="http://economy.blogmura.com/img/economy80_15.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 経済ブログへ" /></a><br><br><br>]]>
      <![CDATA[<span style="background:#FFDBA4"><b>１．江戸期の経済の動き、前半の高度成長期と後半の停滞期</b></span><br><br>江戸期は、江戸に幕府が開かれた１６０３年から大政奉還した１８６７年の約２５０年間です。この江戸期の経済の動きは、人口動態をみるのが一番分りやすいです。<br><br>江戸期の人口は、関が原の合戦が行われた１６００年頃は、全国人口が1300万人位です。それが、元禄時代（１７００年頃）２７００万人、享保時代（1730年頃）３０００万人と急増します。
それに対して、享保末期から享保飢饉、宝暦・明和・天明と次々に冷害・飢饉が襲い、生産力が疲弊し、人口が減少・停滞する不全期となります。<br><br>江戸期２５０年間は、前半１２５年間の高度成長期・人口急増期と後半の停滞期に大きく２分されます。<br><br><b>戦国・江戸前期の人口推移</b><br><img alt="edo01.bmp" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/edo01.bmp" width="452" height="171" /><br>出典：<a href="http://gsk99.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-3951.html" target="_blank">現代社会研究所･古田隆彦ブログ「農業後波と工業現波を比較する」</a><br><br>前半の高度成長期は、戦乱の終了による社会の安定、農業技術の向上や新田開発等による生産力の拡大、武士が城下町、江戸に住まうことによる都市市場経済の成立、商人と職人層の人口増加という構造です。<br><br>後半の１２５年間は、相次ぐ冷害（飢饉）、火山噴火（宝暦の富士山噴火）、大地震（安政の大地震）の自然災害の圧力が高まり、一方、商人階層と武士・農民階層との力関係が変わり、社会の秩序構造が変わるという変動期になります。この変動期が人口の停滞として現れています。<br><br><b>飢饉と江戸の人口変動</b><br><img alt="edo02.bmp" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/edo02.bmp" width="452" height="343" /><br>出典：<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/04/000182.html" target="_blank">縄文ブログ・貧乏人は猫を食え（by江戸北町奉行）</a><br><br><span style="background:#FFDBA4"><b>２．江戸期の経済思想家達は何を論じているか</b></span><br><br>江戸期の学者（儒者）が本格的に経済を論じだすのは、高度成長期の最盛期（元禄）から幕府の治世が旨く行かなくなった天保からです。<br><br>そのスタートは、荻生徂徠の「政談」と太宰春台の「経済録」です。その後、経済を論じた学者と著述を年代順に並べて見ると、下表の通りになります。安藤昌益と二宮尊徳も入れてあります。<br><br>因みに、西欧の経済書と比較してみると江戸期の方が進んでいるのです。<br><img alt="edogakusha.bmp" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/edogakusha.bmp" width="476" height="339" />
<br><br>では、江戸期の経済学者が論じなければならなかった社会状況はどうだったのかを簡単に見てみます。<br><br>江戸期の経済の基本は、年貢米制度と武士の都市居住の強制です。武士はその生活の為に、給与を年貢米の形で受け取ります。３００石の旗本とか３０石の同心とかです。
一方、都市居住なので、武士は年貢米を貨幣（金貨・銀貨、銅銭）に替え、その貨幣で生活必需品を買い、嗜好品を求めます。<br><br>兵農一体の時は、平時は農業に従事し、自給自足度の高い暮しでしたが、城下町と江戸居住となると、何をするのも「お金」がかかる社会に転換しました。そして、大名や武士は、年貢米を担保にして、商人から金を借りることが一般的になってしまいます。<br><br>都市の商品や嗜好品の価格とお米の価格を比較すると、常に、お米の価格が下落して行きます。これは、武士の給料は減少するのに、生活費は年々増大するという構造です。だから、武士の借金は、常に大きくなっていきました。その結果、大名や武士が、借金取りに来る商人から逃げ回るという滑稽な事態になっていきます。（身分序列は士農工商ですが、最下位の商人に最上位の武士は頭が上がらないのです。）<br><br>江戸期中期の学者は、年貢米制度と都市経済の貨幣利用の間にある軋轢、身分序列の崩壊（貧困化する武士階層と実力をもちだす商人階層）、自然災害の多発による飢餓・社会不安の増大に直面したのです。<br><br>ここから、経世済民の学、「経済学」が登場します。経世済民とは、太宰春台が『経済録』のなかで、『天下国家ヲ治ルヲ経済ト云。世ヲ経シテ民ヲ済（すく）フト云義也』と使ったことに発します。但し、太宰の先生である荻生徂徠も「経済学」という言葉は使っていませんが、乱れた世を治める方策を建策しています。<blockquote><span style="background:#FFFFA4">太宰春台／経済録</span>

幕藩体制の下で進行した領主財政の窮乏、統治機構の形骸化・腐敗、農民の疲弊、商人高利貸資本への富の集中など、さまざまな社会矛盾が顕在化した。経世論は、これらの問題にいかに対応するかという献言・献策として執筆・刊行された。単純な貴穀賤金論（重農主義）や尚農抑商策（商人制限策）ではもはや状況に対応できないことが認識され、藩営専売策など幕藩体制の側から積極的に市場経済に対応すべきことが述べられている。</blockquote><blockquote><span style="background:#FFFFA4">三浦梅園／価原</span>

貨幣経済のもつ問題性を鋭く指摘した著作。「天下の良民、金銀の為に游手の奴隷となる」と書く。游手とは、有閑階級・商人階級のことで、良民が商人の奴隷になっていると論じている。</blockquote><blockquote><span style="background:#FFFFA4">海保青陵／升小談</span>

市場経済、商品経済、利子徴収を正当化した論理を展開する。
「田も山も海も金も米も、凡そ天地の間にあるものは皆しろもの也。しろもの（商品）は又しろものを生むは理也。田より米を生むは、金より利息を生むと違いたる事無し。金や米の利息を生むは天地の理也。しろものを貸して利息を取る也」</blockquote><blockquote><span style="background:#FFFFA4">佐藤信淵／物価余論</span>

佐藤は「貴金賤穀の弊」、金を貴び、穀物（農業）を賤しむ考えの弊害を論じた。

「米を蓄るときは鼠喰或は虫付、ふけ米等の出来て減ずること多きも、金を蓄ふるときは、利息出来て、増すこと多きが故に、年貢も金納を多くし、米を払ひて、金にするを良とするとは、小人の利術にして、君子の所為にあらず。」
（お米を備蓄すると鼠に食われ、虫がつき、日にちが経つと劣化する、金を蓄えれば減価せず、利息までつくと言って、武士も金を良しとする。しかし、これは君子の道ではない。）

「士人米を卑みて蓄積せず特に金のみを貴ぶが故に富商の鼻息を仰で憂喜をなすに至り、工商豊かにして、士農困む是れ上下地を易る（カエル）根原なり。此弊を改むるときは工商常に米穀に困み、士農を仰でその業を励むに至れば、物価は自然に平準なるべし」 。
（武士が金をのみ貴ぶので、豪商の鼻息を気にし、借金が返せないと憂いたり、金を貸してくれると言われて喜んだりする。工商が豊かになり、士農が貧窮するという身分序列の逆転が起ってしまう。武士が、金を貴ぶことを止め、穀物（お米）を貴ぶ世に戻れば、都市経済の商品物価が沈静するはずだ。）</blockquote><blockquote><span style="background:#FFFFA4">神田孝平／農商弁</span>

武士の世が終わり、都市市場を支配する「商人」の時代が到来するのは、当然であると論じた。

「かつて王朝が政権を担っていたとき武家をひどく卑しんでいた。しかし，源頼朝の時代にこれまで卑しんできた武士に政権を奪われた。今日では武家が商人をひどく卑しんでいる。しかし，商業をおこなうものが栄え，これをおこなわないものが衰える。すなわち「天下ノ権」が商人に移ろうとする時勢である。このままでは，武家政権もその将来が不透明になる」と。</blockquote>江戸期の主流学者は、都市市場経済のすう勢に対し、その弊害を指摘しますが、押し止める理論を構築できずに、市場化に敗北していきます。<br><br>なお、荻生徂徠や太宰春台は、武士を城下町や江戸から農村地域に帰すこと（帰農論）を建策しますが、兵農一体となると、それは独立した武力となり、幕府体制、藩体制への脅威となるめに、採用されませんでした。<br><br><span style="background:#FFDBA4"><b>３．疲弊した農村復興を実践的に指導した二宮尊徳と報徳仕法</b></span><br><br>江戸期の後半期は、冷害・飢饉・火山・地震が頻発し、都市市場経済からの農村経済（お米経済）への支配が強まり、藩財政が破綻し、その領地である農村が疲弊していきます。
この藩財政の破綻と農村疲弊に対し、正面から取り組み、実践的な方針「報徳仕法」をまとめ、指導したのが二宮尊徳です。<br><br><span style="background:#FFFFA4"><b>二宮尊徳の略歴</b></span><br><br>二宮金次郎（尊徳）は、天明7年（１７８７年）に相模国足柄上郡栢山村（現在の小田原市）の農家の長男として生まれます。<br><br>５歳の時、川の氾濫で自家の田畑が瓦礫となり、１４歳で父親を亡くし、16歳で母親も無くしてしまいます。この苦境の中で、少しの土地に穀物を植え、荒地に菜種を植えるなどして、２０歳の時に自家の再興を果たします。この再興の過程で、書物を読みながら、自然の理や人の有り様を考えていきました。
だから、一時期まで多くの小学校にあった「二宮金次郎像」が、薪を背負って歩きながら書物を読んでいる銅像になっています。<blockquote><span style="background:#FFFFA4">小田原時代のエピソード</span>

・油代がもったいないと叔父に指摘されると、荒地に菜種をまいて収穫した種を菜種油と交換し、それを燃やして勉学を続けた。
・荒地を耕して田植え後の田に捨てられている余った稲を集めて植えて、米を収穫した。 </blockquote>自家の再興を遂げた後、小田原藩家老の服部家の破綻財政を立て直します。この立て直しの秘訣は、家老本人とその奥方の浪費を真っ先に止めることでした。『浪費を止めないなら、立て直しを担うことはできません』とはっきり宣言しています。
この服部家の再建が、小田原藩主に伝わり、小田原藩大久保家の分藩である下野国桜町領（現在の真岡市）の再興を任されます。その後、天領の真岡代官領の経営、日光山領の経営を「報徳仕法」により実行し、成功させます。
そして、安政３年（１８５６年）、下野国今市村（現日光市）の報徳役所で没しています。享年６３歳。報徳仕法を最後まで指揮していたのですね。<blockquote><span style="background:#FFFFA4">桜町時代のエピソード</span>

・ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がしたことから冷夏となることを予測。村人に冷害に強いヒエを植えさせた。二宮の予言どおり冷夏で凶作（天保の大飢饉）となったが、桜町では餓死者が出なかった。 
・開墾した田畑は、既存の田畑に比べると租税負担が軽くなることに注目、開墾を奨励した。 
・村人の仕事ぶりを見て回り、木の根しか撤去できない、周りの村人から馬鹿にされていた老人に15両もの褒美を与え、逆に、人が見ている時だけ他の村人より３倍近く働いているように見せかけて普段はサボっている若者を厳しく叱った。</blockquote>ここには、自然の理や人の有り様を捉え、それを実践していく自在な発想があります。<br><br>では、二宮尊徳がまとめ、江戸末期の農村に広がって行った「報徳仕法」を見てみましょう。<br><br><span style="background:#FFFFA4"><b>報徳仕法、至誠・勤労・分度・推譲</b></span><br><br>報徳仕法は、二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などと、農業の実践から編み出したもの、農家・農村共同体が取り組む「方針書」です。<br><br>掛川に在住している「きよのホームページ」から紹介します。<a href="http://www5a.biglobe.ne.jp/~umekiyo/houtoku/houtoku1.html" target="_blank">報徳社の部屋</a>よりです。<blockquote><span style="background:#FFFFA4">至　誠</span>

まことの道とは世を救い、世を益することをいいます。この意味においては仏教・神道・儒教・（キリスト教）も原点は皆同じです。宗教と違う所は理屈をこねるのではなく、まことを尽くし実行する所にあります。 </blockquote><blockquote><span style="background:#FFFFA4">勤　労</span>

二宮尊徳のとなえた説に天道・人道論というのがあります。

天道とは春夏秋冬、晴天・雨天等自然事象全てを指します。植物の種は全て土壌の上で発芽し日光と水の力で生育します。これを動物が食べ物とし生きてゆきます。これが天道です。この自然環境の基で人は種の中で米とか大根とか人間の役に立つものをより分け、生育中も雑草を除去し、灌漑を行い収穫を多く得ようとします。このように人が手を加え自分達の利益のためになすことを人道と呼びました。人道は作為的なものですから放置すれば自然に廃れてしまいます。これに歯止めをかけ人道を保持するのが勤労です。</blockquote><blockquote><span style="background:#FFFFA4">分　度</span>

それぞれの分限を守り、相応の生活をするということ。これにより収支のバランスがとれた安定した生活ができます。至誠と勤労をもって収入を増やし、これに見合った支出をするのが順序で単に支出を押さえるけちけち倹約生活とは違います。見合った支出といっても贅沢やムダは戒めていますから当然収支過となります。この分を次に述べる推譲に回すわけです </blockquote><blockquote><span style="background:#FFFFA4">推　譲</span>

分度を確立した上で行うもので、収入の一部を将来のために譲ることをいいます。自分の子孫のために譲ることは比較的簡単ですが、村おこしのために、社会のために譲ることはなかなかできないですね。しかし村や社会が豊かになれば必ず自分に還元される、そのために将来に渡る生活の安定、幸福の保証のために必要なものが推譲です。例えば推譲金を灌漑事業に充てたとします。この結果干ばつ・洪水の心配もなくなり自己の作物の収穫量も増えるといった具合です。</blockquote>このような実践方針、仕法の背後には、二宮尊徳の自然論・人間論があります。「一円の相」です。自然や人の有り様は、円の相（ごとく）であるという考えです。<br><br>季節は春夏秋冬。春に芽吹き生茂る（生の相）、夏には花が咲き、秋には実がなり、その種が冬を越すという図が左の図です。<br><br>右が人に世の円です。解釈すれば、「人の道（仁道）を貪り（むさぼり／必死に望み）、勤労に励み（仁行）、富を生み出すことで、仁徳の余力ができ、情の豊かな生活と推譲（仁心）に到る」の図です。<br><img alt="edo03.bmp" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/edo03.bmp" width="416" height="220" /><br><br>二宮尊徳の人間理解、人の道の理解はユニークです。<br><br>兵庫県西宮市にある報徳学園のホームページより紹介します。<blockquote><span style="background:#FFFFA4">翁曰く、それ譲は人道なり。今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るの道に勤めざるは、人にして人にあらず。</span><br><br>尊徳翁は、譲るという行為は人間にしかできない行為であると教えました。人間の手の構造と鳥・獣の手（足）の構造を比較し、「人間の手は自分の方に向いていて、自分の方に物を引き寄せることができるが、相手に向けて相手の方に押しやることもできる。動物の場合は自分に引き寄せるのみで、相手の方に差し出すようには使えない。」という説明をしています。つまり、推譲は人間にしかできないことであり、だからこそ推譲を実践しなければ人間として失格であると厳しく教えました。<br><br><a href="http://www.hotoku.ac.jp/uta_kotoba/index.php" target="_blank">報徳学園、報徳教育部／今月のうた・ことば</a></blockquote>こんなことばもあります。<br><br><span style="background:#FFFFA4">「男　至誠なければ女気を含み」「女　至誠なければ男気を含む」</span>。男女の役割をまことをもって励まないと、男は女のようになり、女が男のようになってしまい、男女の和合が崩れてしまうの意味でしょう。<br><br><span style="background:#FFDBA4"><b>４．幕末・明治初期の報徳運動</b></span><br><br>二宮尊徳は、大政奉還が行われる２０年前に没していますが、尊徳の教えにより、幕末から明治前半の時代に、東北から関東、東海にかけて、報徳思想・報徳仕法による農村復興、農村のむらづくりが取り組まれます。<br><br>・門人の相馬藩士富田高慶が、相馬藩の財政再建、農村復興に取り組み、成功させます。<br><br>・常陸国谷田部藩（現在のつくば市）では、天保災害で、藩領の４割が荒地になってしまい、藩財政が破綻します。そこで、第７代藩主興徳は二宮尊徳の報徳仕法を手本とし、藩医中村勧農衛を家老に登用して財政再建を主とする藩政改革を行ないました。必ずしも旨く行かなかったようですが。<br><br>一方、幕末から明治初期にかけて、農民・農村での報徳運動（報徳社運動）が起ります。<br><br>掛川の大日本報徳社の源流は、遠江国佐野郡倉真村（現静岡県掛川市）の豪農、岡田佐平治（１８１２―１９７８年）が設立した「牛岡組報徳社」です。佐平治は、報徳思想に感銘し、日光の二宮尊徳を訪ね、口授を受けて帰村し、掛川地方の難村の復興事業を指導します。明治８年（１８７５年）には遠江一円の農村復興を担う、遠江国報徳社を設立し、その社長に就任します。<br><br>幕末から明治初期に、遠江国と三河国（愛知県東部）一帯に、報徳社という農民共同組織が形成されたのです。<span style="background:#FFFFA4">報徳社・農村共同組織が取り組んだのが、耕地整理、用水整備、共有林（山）の管理</span>です。<br><br>私の生まれた集落が、実は、報徳社により日本で初の耕地整理をした所です。その紹介をもって、明治初期の報徳社運動・農民の共同行為をイメージしていただければと思います。
彦島村の耕地整理を主導したのが名倉太郎馬氏です。<blockquote>名倉 太郎馬（なぐら たろうま）

1840年（天保11年） - 1911年（明治44年）。明治期の農事指導者。

日本で最初に近代的な耕地整理を実施した人物である。名倉太郎馬らが実施した耕地整理は「静岡式」と呼ばれ、全国のお手本とされた。そして、1899年（明治32年）に法制化される耕地整理法へと発展していく。

彦島村（現袋井市彦島）は、太田川水系の蟹田川によって頻繁に水害を受ける貧しい村であった。太郎馬は、何とか村を立て直したいと考え、1871年（明治4年）、静岡藩庁に村の救済を願い出た。<span style="background:#FFFFA4">報徳社員（仕法人）の荒木由蔵</span>が派遣され来村、その<span style="background:#FFFFA4">後を引継いだ神谷庄七郎の勧めで彦島報徳社を設立</span>した。

収穫量を増やすには「すじ植え（筋縄定規植え）」という方法がよいという指導を庄七郎から受けた。そのためには田の形状を整えることが必要であった。1872年（明治5年）、試験的に、数名の者と共同で五反余歩の水田で、曲がりくねった畦道を取り払い、まっすぐな畦道にして、すじ植えをしてみた。農作業が能率化され、収穫量が増えることが実証された。

これを見た村人は心を動かされ、村全体の耕地整理に賛同した。また、1874年（明治7年）には、洪水の原因であった蟹田川の流路付け替えが認められた。

<span style="background:#FFFFA4">1875年（明治8年）、水田所有者の権利利害を調整し、官費を借り入れて、蟹田川の流路変更のための開削工事及び彦島村全体33haの道路・畦畔の直線化、用排水路の整備等の畦畔改良工事を内容とする集団的区画整理事業に着手、これを完成させた。</span>

ウイキペディアより</blockquote>　　田原彦嶋の耕地整理<br>　　<img alt="edo04.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/edo04.jpg" width="250" height="324" /><br>　　<a href="http://www.city.fukuroi.shizuoka.jp/kbn/02100908/02100908.html" target="_blank">袋井市ＨＰ</a>より<br><br>彦島集落の道路、水田、水路の骨格は現在も図の通りです。報徳社事業により、農業基盤が整えられたのです。<br><br>また、明治の実業家にも、二宮尊徳の考え方が流れ込みます。豊田自動織機（現在のトヨタ自動車の初め）をつくり上げた豊田佐吉翁も、報徳思想により、困難な事業を成功に導いています。<br><br>二宮尊徳の報徳思想、報徳社運動は、明治の農村強化に役立ちますので、時の明治政府、特に、陸軍を育てた山縣有朋に利用されてしまいます（陸軍の兵隊は農村出身者なので）。そして、昭和の国家収束の強化のために、二宮金次郎像が作られました。<br><br><br><span style="background:#FFDBA4">二宮尊徳は、自然の理を踏まえた実践思想、人間の共同性・本源性に基づいた組織論というように、日本人の根幹部分を引き出した優れた実践家（経済思想家）だと思います。</span><br><br><br>次回は、身分序列に安住する特権階級を徹底的に批判し、東北の一角に農村共同体（コミューン）を夢見た安藤昌益を紹介します。<br><br>]]>
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   <title>『日本国債暴落の可能性は？』【２】国債って何？：基礎知識の整理①</title>
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   <published>2012-04-20T13:23:55Z</published>
   <updated>2012-04-23T08:21:40Z</updated>
   
   <summary>先週からスタートした『日本国債暴落の可能性は？』シリーズですが、今回は「国債って何？：基礎知識の整理①」と題して、国債の基本から整理していきたいと思います。 こちらからお借りしました 応援よろしくお願いします！   ...</summary>
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      <name>fujita</name>
      
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         <category term="03.国の借金どうなる？" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kane-kasi.com/blog/">
      <![CDATA[先週からスタートした<span style="color:#FFAE35;">『日本国債暴落の可能性は？』</span>シリーズですが、今回は<strong><span style="color:#FFAE35;">「国債って何？：基礎知識の整理①」</span></strong>と題して、国債の基本から整理していきたいと思います。

<center><img alt="%E6%88%A6%E6%99%82%E5%9B%BD%E5%82%B5.jpg" src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/%E6%88%A6%E6%99%82%E5%9B%BD%E5%82%B5.jpg" width="400" height="217" /></center>
<center><a href=" http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%82%B5">こちらからお借りしました</a></center>

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      <![CDATA[<strong><span style="color:#FFAE35;">■国債って、いつ・何のためにできたの？（日本）</span></strong>
<strong>1870年（明治３年）</strong>、<span style="color:#6666ff;">鉄道建設</span>のために、日本最初の国債が<span style="color:#6666ff;">ポンド建て</span>で発行。すべての関税収入を担保に入れたにもかかわらず、満期は13年、金利は９％と、ホンジュラスに次いで劣悪な発行条件。1873年には、秩禄の処分のために、25年満期の第２回ポンド建て国債を、米を担保に発行した。金利は７％に下がり、アルゼンチンやチリよりも高い金利を求められた。
<a href="http://www.nri.co.jp/opinion/chitekishisan/2005/pdf/cs20050108.pdf">リンク</a>


<strong><span style="color:#FFAE35;">■国債の種類</span></strong>
日本の国債には多くの種類がある。それらは<strong>発行の目的</strong>や<strong>償還期間の長短</strong>などにより分類される。

<blockquote><strong><span style="color:#6666ff;">〇国債の額面</span></strong>

・15年変動利付国債と物価連動国債が10万円、個人向け国債が1万円、そのほかは5万円
・物価連動国債と割引短期国債 (TB)、政府短期証券 (FB) は法人のみ購入が可能で、個人向け国債は個人のみ購入が可能

<strong><span style="color:#6666ff;">〇利払いや償還額による分類</span></strong>

<strong>固定利付債</strong>
半年毎に一定の利子が支払われ、償還時に額面金額が支払われる。
<strong>変動利付債</strong>
半年毎に支払われる利子の額が<span style="color:#6666ff;">市場金利によって</span>毎回見直される。償還時に額面金額が支払われる。
<strong>物価連動債</strong>
金利は固定であるが元本と利息が<span style="color:#6666ff;">全国消費者物価指数に連動</span>して増減する。そのため、元本割れになることもあり得る。
<strong>割引債</strong>
途中での利払いはないが、<span style="color:#6666ff;">額面を下回る額で発行</span>され、償還時に額面金額が支払われる。かつては3年や5年のものが発行された事があるが、2002年11月以降は短期のものしかされていない。

<strong><span style="color:#6666ff;">〇目的による分類（国債を発行する理由）</span></strong>

<strong>普通国債</strong>
<span style="color:#6666ff;">建設国債（4条国債）</span>：道路、住宅、港湾等の社会資本の建設のため財政法第4条に基づき発行される。<span style="color:#6666ff;">赤字国債（特例国債）</span>：歳入の不足を補うために1年限りの特例公債法を制定して発行される国債である。
<strong>交付国債</strong>
<strong>財政投融資特別会計国債（財投債）</strong>
<strong>借換国債</strong>（特別会計に関する法律第46条及び第47条）
<strong>個人向け国債</strong>
10年変動金利のもの（2003年3月 - ）、5年固定金利のもの（2006年1月 - ）と3年固定金利のもの（2010年6月 - ）がある。いずれも、<span style="color:#6666ff;">中途解約の際の買い取り額保証を定めているのが特色</span>である。なお、2011年12月以降に募集するものについては東北地方太平洋沖地震（東日本大震災）の復興財源として活用するために、名称を<span style="color:#6666ff;">「個人向け復興国債」</span>としている。

<strong><span style="color:#6666ff;">〇償還期間による分類</span></strong>

<strong>超長期国債</strong>
15年（変動利付国債）・20年（利付債）・30年（利付債）・40年（利付債）
<strong>長期国債</strong>
10年（利付債）・10年（個人向け国債）・10年（物価連動国債）
<strong>中期国債</strong>
2年（利付債）・3年（利付債）・3年（割引債）・4年（利付債）・5年（利付債）・5年（割引債）・5年（個人向け国債）・6年（利付債）
4年債は2001年2月以降、6年債は2001年3月以降は5年利付債に統合されたため発行を停止した。割引債は、3年債は2002年11月に、5年債については2000年9月をもって発行を打ち切っている。
<strong>短期国債</strong>
6カ月（割引債）・1年（割引債）
<strong>国庫短期証券</strong>
60日（割引債）</blockquote>
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%82%B5">リンク</a>


<strong><span style="color:#FFAE35;">■国債の金融商品としての特徴</span></strong>
<strong><span style="color:#6666ff;">日本国政府が元本保証している</span></strong>
国債とは、<span style="color:#6666ff;">「国債を買った国民が国に対して、返還を請求する権利」</span>。ちなみに「国債」とは省略した言い方で、正式な名前は<span style="color:#6666ff;">「国庫債券」</span>といいます。<span style="color:#6666ff;">満期後の元本保証は、日本国政府が保証している国内でトップクラスの安全な投資</span>です。もしも、国債を購入した金融機関が破たんしてしまっても、保有している国債は保護されます。利子や元本が受け取れなくなることはありません。銀行などでは国債のために開設する｢国債の振替口座｣で管理されます。<span style="color:#6666ff;">｢国債の紙｣は発行されず、電子化されペーパーレス</span>です。そのため、偽造される心配もなく、盗まれたりなくしたり、火事で焼けてしまうこともありません。安全性はトップクラスなのです。
<a href="http://www.koku-sai.com/article/towa.html">リンク</a>


<strong><span style="color:#FFAE35;">■国債と他の金融商品を比較</span></strong>
<strong><span style="color:#6666ff;">●定期預金と国債の比較</span></strong>
国債への投資で最も多く比較される対象となるのが、<span style="color:#6666ff;">「銀行の定期預金」</span>ではないでしょうか？債券と預金という仕組みの違いはあるものの、両方とも安全性が高い利息収入を目的とした資産運用として知られています。
<span style="color:#6666ff;">金利面</span>では<span style="color:#6666ff;">圧倒的に「国債」「個人向け国債」が定期預金の金利を上回っています</span>。金利による収入という点では、国債の方が圧倒的にプラスです。
<span style="color:#6666ff;">定期預金の場合「解約」が可能</span>です。<span style="color:#6666ff;">国債（普通国債）の場合は「解約」ということが利用できません</span>。ただし、購入以後はいつでも<span style="color:#6666ff;">「市場で売却」</span>をすることができます。一般的には購入時よりも<span style="color:#6666ff;">「市場金利が上がっていれば、債券価格は下落するので売却損が」</span>、購入時よりも<span style="color:#6666ff;">「市場金利が下がっていれば、債券価格は上昇するので売却益が」</span>生じることになります。
<span style="color:#6666ff;">国債の場合は、国が破たんした場合には投資した資金が戻ってこないリスク</span>があります。ただし、国債というのは「円ベース」では最も安全性が高い商品です。基本的には「無リスク」と評価されます（円ベースの場合）。一方で<span style="color:#6666ff;">定期預金の場合</span>、預金した銀行が破たんした場合には<span style="color:#6666ff;">「1000万円とその利息部分」までは「預金保険」によって保護</span>されますが、それ以上の部分は保護されません。

<strong><span style="color:#6666ff;">●国債と社債・地方債の比較</span></strong>
<strong>社債</strong>
一般事業法人などのいわゆる企業が発行する債券
<strong>地方債</strong>
県や市などの地方自治体が発行する債券

当然ですが、一部の例外を除けば、信用リスクは「国」＞「地方自治体」＞「企業」となります。
<a href="http://www.national-bond.com/invest/hikaku.html">リンク</a>


<strong><span style="color:#FFAE35;">■社会主義国（中国）にも国債はあるのか？</span></strong>
<span style="color:#6666ff;">中国の国債</span>は、49 年に建国された新中国の財政資金需要への対応を目的として、<span style="color:#6666ff;">50 ～ 58年の間発行</span>された。その後、計画経済体制への移行に伴い、59～80年の22年間は国債の発行が停止された。<span style="color:#6666ff;">中国が再び国債を発行したのは、経済改革に伴い財政支出が増加し始めた81 年から</span>である。
その後、<span style="color:#6666ff;">国債の発行額は増加</span>しているが、特に<span style="color:#6666ff;">94 年</span>と<span style="color:#6666ff;">98 年</span>にその急増振りが顕著である
。94 年と98 年はともに<span style="color:#6666ff;">前年比約270%増</span>と大幅であり、94 ～ 98 年までの伸び率を年平均で見ても35%と前10 年間（83 ～ 93 年）の25%より10 ポイントも高い。国債発行額のGDPに占める比率も、89～93年の間の1%台から94 年に2%台に突入し、97 年に3%台、98 年に更に8%へと上昇した。
<a href="http://www.nochuri.co.jp/report/pdf/f9909fo2.pdf#search='中国国債">リンク</a>


<strong><span style="color:#FFAE35;">■まとめ</span></strong>
以上の内容をまとめます。
・日本で国債が発行されたのは、1870年（明治３年）に鉄道建設のためにポンド建てで発行されたのが最初。
・国債には多くの種類があり、発行の目的や償還期間の長短などにより分類される。
・国債の金融商品としての特徴は、日本国政府が満期後の元本保証をしていること。
・国債と他の金融商品（定期預金）とを比較すると、１）金利面では圧倒的に「国債」「個人向け国債」が定期預金の金利を上回っている、２）定期預金の場合は解約が可能なのに対し、国債は解約できない（いつでも市場で売却が可能）、３）定期預金は、預金した銀行が破たんした場合には「1000万円とその利息部分」までは「預金保険」によって保護されるのに対して、国債は国が破たんした場合には投資した資金が戻ってこないリスクがある、等があげられる。
・社会主義国（中国）でも国債は発行されており、その発行額は年々増加している。（特に94年と98年が顕著）


次回は、<strong><span style="color:#FFAE35;">【３】国債発行と流通の仕組み：基礎知識の整理②</span></strong>　をお送りします。お楽しみに！]]>
   </content>
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   <title>脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち（１３）イスラム経済（ムハンマド・バーキルッ＝サドル）その２</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kane-kasi.com/blog/2012/04/001852.html" />
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   <published>2012-04-17T16:00:00Z</published>
   <updated>2012-04-23T08:22:42Z</updated>
   
   <summary>現代は市場原理に基づく経済システムが実体経済から遊離（バブル化）して、経済は崩壊の危機に陥っています。この経済システムに、過去～現在に至るまで異議を唱えてきた経済理論家たちがいます。このシリーズではそれらの理論家の思想や学説を改めて見つめなおし、次代の経済システムのヒントを見つけていきたいと思います。 前回はイスラム経済を捉えるために不可欠なイスラーム（≒イスラム教）の基本構造を、ムハンマド・バーキルッ＝サドル氏の『イスラーム経済論』からの引用を中心に取り上げました。 脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち（１２）イスラム経済（ムハンマド・バーキルッ＝サドル） 今回はイスラームの経済システムについて以下の5つの特徴に着目し、サドル氏の『イスラーム経済論』を引用しながら学んでいきたいと思います。 ①神の代理人としての所有 ②労働＝信仰の奨励～働かざるもの祈るべからず～ ③浪費の禁止 ④リバー（利子付貸付行為）の禁止と現物取引の原則 ⑤財の社会的還流 （イスラム圏のキャラバン） いつも応援ありがとうございます☆  ...</summary>
   <author>
      <name>member</name>
      
   </author>
         <category term="07.新・世界秩序とは？" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kane-kasi.com/blog/">
      <![CDATA[現代は市場原理に基づく経済システムが実体経済から遊離（バブル化）して、経済は崩壊の危機に陥っています。この経済システムに、過去～現在に至るまで異議を唱えてきた経済理論家たちがいます。このシリーズではそれらの理論家の思想や学説を改めて見つめなおし、次代の経済システムのヒントを見つけていきたいと思います。


前回はイスラム経済を捉えるために不可欠なイスラーム（≒イスラム教）の基本構造を、ムハンマド・バーキルッ＝サドル氏の『イスラーム経済論』からの引用を中心に取り上げました。


<a href="http://www.financial-j.com/blog/2012/04/001849.html">脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち（１２）イスラム経済（ムハンマド・バーキルッ＝サドル）</a>


今回はイスラームの経済システムについて以下の5つの特徴に着目し、サドル氏の『イスラーム経済論』を引用しながら学んでいきたいと思います。


①神の代理人としての所有
②労働＝信仰の奨励～働かざるもの祈るべからず～
③浪費の禁止
④リバー（利子付貸付行為）の禁止と現物取引の原則
⑤財の社会的還流


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<span style="font-size:70%;">（イスラム圏のキャラバン）</span>


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      <![CDATA[<span style="background:#A4FFA4"><strong>①神の代理人としての所有</strong></span>
まず経済システムを捉える重要な視点として、イスラームは財の所有（私的所有）をどのように考えているのでしょうか？

<blockquote>富とはアッラーの富であり、アッラーこそは真の所有者である。人間は地上における彼の代理人であり、大地とそこにある富、資源の管理者にすぎない。至高のアッラーは述べている。

アッラーこそ人間を代理とした方であり、望むならば、それを人間から取り上げもされる。「望みとあれば、汝を取り除き、代わりに意中の者を代理とされる。」（クルアーン第6章134節）

代理はその本性からして人間に、彼を代理とした者から託された資源に関して、その指示に従うよう義務づける。アッラーは述べている。「アッラーとその使徒を信じ、汝らがその代理人とされたものから施しを与えよ。汝らのうちで信仰篤く、よく施すものには、大きな報償が与えられる」（クルアーン第57章7節）

さらにこの代理の結果、ひとは自分を代理人とした者に対して責任を持ち、あらゆる言動、労働に関して委任者の監視下に入るのである。

本来代理が社会のものであるならば、私的所有は社会がこの代理の目的、使命を遂行するための一つの手段であるということになる。したがって個人が財を所有しているだけで、社会との関係が断たれることはなく、また社会のそれに対する責任が消滅する訳でもない。むしろ社会は、所有者が正しい取扱いをしない場合、彼の無能力から財を保護する必要があるのである。

私的所有の存在とそれを代理の概念によって、本来の場に戻すこのような試みにより、イスラームの所有権は目的ではなく、手段に変わるのである。その知的、精神的本質をイスラームと融合させたムスリムは、所有権を、一般的な代理の目的を果し、多様な人間の必要を満足させる手段とみなすのである。それは充足をしらない、貪欲な富の蓄積、蓄財を目的としてはいない。</blockquote>


イスラームでは<strong>富・資源（財）とは全てアッラー（神）のものであり、人間は活用を委託された神の代理人として財を所有</strong>します。つまり人間は財の使用権を持っているだけに過ぎず、活用しない場合には使用権を失います。例えば土地が活用されずに退廃した場合や所有者が死亡した場合には死地とみなされ、国家が土地を没収したり、他人がその土地を利用することが認められています。


またイスラム経済では、財の所有に関して諸形態（国有、公有、私有）があります。土地の私有は基本的に認められていますが、泉（水）や鉱脈（鉱物資源）については私有を認めずに採取のみに限定するなど、社会全体で財を活用する仕組みが考えられています。


<span style="background:#A4FFA4"><strong>②労働＝信仰の奨励～働かざるもの祈るべからず～</strong></span>
イスラームでは労働（生産）が奨励され、神への信仰そのものとされています。

<blockquote>イスラームは思想的に労働と生産を奨励し、それらに高い価値を認め、それらを人間的名誉、信仰の質、はては知性の高さとまでも結びつけている。これによりイスラームは、生産促進と富の開発にとって好ましい人間環境を創り上げ、それ以前には知られていなかった労働と怠惰に関する道徳的尺度と、特定の評価を生み出した。そして自らの糧を求めて働く労働者は、働きのない信者よりも神のもとでは上位に立ち、怠惰に身をまかせ、労働を侮る者は、人間性を欠く者と見なされ軽視の対象となった。

これについては次のようなハディースがある。「彼は家でお祈りばかりしていますが、生活は不如意で兄弟が彼の生計を立てています。」するとイマーム（※指導者 ここではムハンマドのこと）は言った。「彼を養っている兄弟の方が、彼よりもはるかに信心深い。」
数多くのハディースの中で、労働は信仰の一部として見なされている。例えば、「健全な財産づくりは信仰の一部である」といわれ、また預言者の他のハディースにはこうある。「ムスリムが耕し、植えつけ、それを人間や家畜が食すならば、それは彼のサダカ（喜捨）として書き留められる。」

イスラームは怠惰をよしとする考えに反対し、労働を勧めたように、自然の富の放置、財産の凍結、その利用、活用の停止に反対している。そして生産のために自然の力と富を最大限に活用し、人間をその利用、活用に奉仕させた。またイスラームは、自然の財や富を放置、軽視することを一種の責任の回避、神が下僕たちに授けられた恵みに対する忘恩と見なしている。</blockquote>


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<span style="font-size:70%;">（ハディース）
※ハディースはクルアーンに次ぐ、第二聖典とされています。ハディースの内容は預言者ムハンマドの日常生活や信仰に関わる様々なことが述べられ、イスラム信徒の広範な規範・遵守すべき慣行を示しています。</span><BR>
イスラームでは労働は神に賞（め）でられた行為、不労（怠惰や退蔵）は呪われた行為と言われています。<strong>労働によって財が活用され、人間は財の所有を委託された神の代理人としての役目を果たす</strong>ことになります。つまり、労働とは神への信仰そのものであるといえます。これは引用内の「ハディース（預言者ムハンマドの言行録）」にもあるように、労働しない人間は信仰が薄い者であり、「働かざるもの祈るべからず」と言われる所以でもあります。


<span style="background:#A4FFA4"><strong>③浪費の禁止</strong></span>
また労働（生産）の観点から、消費（浪費）にも独自の考え方が反映されています。><BR>

<blockquote>生産の観点からイスラームは、ギャンブル、魔術、奇術といったある種の非生産的活動を禁じている。そしてこの種の活動を通じて利益を上げること、それを行って金を稼ぐことを認めていない。クルアーンには、「虚偽によって汝らの財産を貪り食ってはならない」とある。このような活動は、人間のもつ健全な生産的エネルギーを損なうものであり、それを行う者たちに支払われる偽りの賃金は、本来開発や生産のために向けられる可能性のあった財を無にするものである。

歴史や具体的な現実を概観してみれば、この種の活動やそれによる利得を通じてなされる浪費がいかに大きなものか、またこのエネルギー、努力、資本の浪費のために生産やその他のあらゆる健全な目的がこうむる損失がいかばかりであるかが、すぐに明らかとなるであろう。

またイスラームは、社会的生産が浪費をもたらさぬよう義務づけている。生産活動の過程を通じて、それが個人的な行為であれ、社会の公的行為であれ、浪費はイスラーム法において禁じられているからである。（例えば）個人が家内の清掃に香料を用いることは浪費として禁じられる。しかし同時に社会、また別の表現でいえば香料の生産者が、社会の必要や消費、商業的能力を超える量の香料を生産するといった過剰な生産は、一種の浪費として禁じられる。財産の浪費がこれに当たることはいうまでもない。</blockquote>


イスラームでは<strong>消費のみならず生産についても社会が必要としないモノの過剰生産は浪費である</strong>と指摘しています。これは本来向かうべき可能性（生産）が浪費に潰されるのを防ぐためであり、イスラームでは浪費（消費）を個人ではなく、社会全体を見据えて捉えています。


<span style="background:#A4FFA4"><strong>④リバー（利子付貸付行為）の禁止と現物取引の原則</strong></span>
イスラム経済では不労所得は認められておらず、リバー（利子付貸付行為）が禁止されています。

<blockquote>貸付金におけるリバーはイスラームでは禁止されている。リバーとは、他の者に財を一定期間、利子を課して貸付け、債務者にその利子を、合意した返済日に元本と共に支払わせるものである。したがって貸付は、利子なしでしか許されない。債権者の権利は元金を返済せしめることだけで、いかに小額であっても増加分は認められない。この規定は、イスラーム的にきわめて明確であるため、イスラーム法における絶対的規定の一つに数えられている。

その根拠を提示するとすれば、次のクルアーンの章句で十分であろう。
「利息を貪る者は（復活の日に）悪魔にとりつかれて倒れたものがするような起き方しか出来ないであろう。それは彼らが『商売も利息をとるようなものだ』と言って（利息を取って）いるからである。しかし、アッラーは商売を許し、利息を禁じ給うた。主から訓戒が下った後にこれを止める者には、過ぎ去ったことは許されよう。彼のことはアッラーにまかされる。だがその非を繰り返す者は、業火の住人で、彼らは永遠にその中に住むのである」（雌牛章275節）

「信仰する者よ、汝らが真の信者であるならば、アッラーを畏れ、利息の残額は帳消しにせよ。もし汝らがそうしないのであれば、アッラーとその使徒から、戦いが宣告されよう。だが汝らが悔い改めるならば、元金は汝らに残される。（人々を）不当に扱うことがなければ、汝らも不当に扱われることはない」（雌牛章278・279節）

上述の最後のクルアーンの一節は、債権者が貸しつけた賃金の権利を保証し、改悔した場合には元金の回収だけを許しているが、これは利子を課した貸付、およびいかに少額であれさまざまな種類の利子の禁止の明白な根拠となっている。なぜならばいかなる場合でも、利子は債権者から債務者に対する、クルアーン的意味における不正と見なされるからである。</blockquote>

また同様に現物取引が原則となっています。

<blockquote>流通に関するイスラームの概念を反映する規定や法制に関しては、以下にあげる多くの法典根拠や法学上の見解の中にそれらを見出すことができる。商人は、例えば小麦を買いつけてもそれを実際に手に入れていなければ、より多額の値をつけて売却するという仕方で利益を得ることは許されない。イスラーム法学においては、（権利）移転の法的行為は契約そのものによって完了し、その後になされるいかなる具体的行為にも依存することはないが、商品を実際に手に入れた後に、初めて売却が可能となるのである。

すなわち商人は、小麦を手に入れなくとも契約に基づきそれを所有することになるが、それにも拘らず財を実際に手に入れないかぎり、それをもとに商取引したり、利益をあげることは許されない。それは商業利益を労働と結びつけ、商業が法的行為のみから利益を生み出すような状況を回避するためである。</blockquote>


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<span style="font-size:70%;">（天使から啓示を受けるムハンマド（マホメット））</span>


イスラム経済では、<strong>投機などの不労所得は認められず、現物取引（≒流通労働）が原則</strong>です。また<strong>利子は駄目ですが利潤は良い</strong>とされ、事業に出資しその利益を受け取ることは認められています。


この事業投資は現代の無利子銀行（イスラーム金融）が収入を得る基本的な仕組みともなっており、イスラームの預言者ムハンマド（マホメット）の時代（7世紀）に起源があります。


当時のアラビア半島では、遠距離へラクダで物資を運搬する事業＝キャラバン通商が盛んで、ムハンマド自身も神の啓示を述べるようになる以前はキャラバンの頭でした。そして彼の最初の妻ハディージャは、女商人としてキャラバンに資金を提供しています。


資金を持っている者たちは、このキャラバンに資金を託し利潤を得ていましたが、途中で野盗に襲われるなど失敗するリスクも大きかったようです。キャラバンが成功した場合には、出資者は元本と儲けをキャラバンとの間で例えば折半し、失敗して損失が出た場合には、出資者は配分が無いばかりか元本も保証されませんでした。このような資金提供及び利潤配分による事業投資は「ムダーラバ」（Mudaraba）と呼ばれています。


現在のイスラーム金融の原形は、この７世紀当時のアラビア半島の商習慣をムハンマドがイスラームとして定式化したものと考えられます。


<span style="background:#A4FFA4"><strong>⑤財の社会的還流</strong></span>
イスラム経済では、ここまで見てきた<strong>生産と消費を社会的に循環させる仕組みとして、ザカート（喜捨）</strong>があります。


ザカートとは、財産に余裕のあるムスリムの義務であり、その人の財産から一定比率の金銭や現物を支払います。年末にそれぞれの人の収入や貯蓄（農産物、金銀および金銀装飾品、現金、商品、鉱業、牛・水牛、羊・山羊、ラクダなど）の双方に課せられ、貧しいものに直接支払うか、あるいは国家に納めることで、財の社会への還元と分配が行われます。（参考：<a href="http://islamcenter.or.jp/jpn/zakat.web.htm">ザカート・喜捨</a>）


さらにこの<strong>財の社会的還流の補強が、国家の役割＝取組み</strong>となっています。

<blockquote>イスラーム国家は、イスラーム社会における個人の生活を完全に保証するよう義務づけている。

国家は通常、この責務を二つの段階に応じて遂行する。第一の段階において国家は、個人が自分の労働と努力を基礎に、生活しうるよう、労働の手段と、生産的な経済活動に意義ある参加を可能にする機会を準備する。ただし個人が労働に従事したり、自分で完全に生計を立てることができない場合、あるいは国家が個人に労働の機会を提供しえないような例外的な状況にあるさいには、第二の段階が到来する。そのさい国家は、個人の必要を満たし、一定の生活水準を維持させるために充分な財を用意して、補償の原則を実際に適用するのである。</blockquote>


国家が行う財の社会的還流の事例として、遺産相続の規定が挙げられます。イスラームでは、所有する財は生前のみ有効で個人が死後の財の帰属を決定する権利を持っておらず、相続法などの法規定によって決められます。


法規定では、相続の恣意的な（自分のための）決定を禁じ、遺贈は財の1/3までに制限されています。この遺贈も長子相続のような財の集中を意図するものではなく、贈与者の血縁関係を通じて、四方に拡散されて社会へと配分される仕組みです。また遺産の残りは、貧しい者へのザカート（喜捨）として処分されます。このような遺産相続の仕組みは、自分の好きなように死後の遺産相続を決定できる資本主義とは大きく異なるところです。


<span style="background:#A4FFA4"><strong>■まとめ</strong></span>
前回はイスラームの経済問題の捉えかたと共にイスラームの基本構造を学びました。

<blockquote><a href="http://www.financial-j.com/blog/img2011/TOP.html" onclick="window.open('http://www.financial-j.com/blog/img2011/TOP.html','popup','width=785,height=506,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.financial-j.com/blog/img2011/TOP-thumb.jpg" width="400" height="257" alt="" /></a><BR>
<span style="font-size:70%;">（ムハンマド・バーキルッ＝サドル氏（左）とその著書「イスラーム経済論」（右））</span>


・経済問題とは、自然資源の不足や労働の配分関係ではなく、人間の不正と忘恩に依るものである。

・イスラームを実現するための世界観（統合）＝タウヒード、生活の指針＝シャーリア、集団＝ウンマが一貫していることがイスラームの基本構造です。

・サドル氏がイスラム経済を部分ではなく、イスラーム総体として捉える必要があると忠告したのは、この他部分と根幹で密接に連関したイスラームの基本構造を認識しているためであり、経済問題を人間自身の問題と捉えていたのは、正しき人間（イスラム信徒）がイスラームを実現することによって、現在の全ゆる問題（経済などの諸問題）が解決するという認識に立っていたと考えられます。</blockquote>


今回はイスラームの経済システムについて見てきましたが、神の代理人としての所有権、労働の奨励と促進（浪費や不労所得の禁止）、財の社会的還流など、神の教えによって自分発の考えを諭し、とことん集団発の思考で経済システムを構築していることが分かります。


これは集団をどのように統合していくのか？また集団が拡大し、対面を超えた社会全体をどのような観念で統合していくのか？といった<strong>集団統合の現実課題に直面し、その中で生み出された社会規範が、イスラームの経済システムに反映</strong>されているためと考えられます。またイスラームの経済システムは、とことん集団発で人類の本源性を残しており、どことなく日本に近い感覚があります。これは<strong>イスラム圏も日本と同じく共同体（体質）を多く残している証</strong>ではないでしょうか。


<span style="background:#FFE3E3">サドル氏を通したイスラム経済からは、次代の経済の可能性として「経済どうするか？といった部分的な思考ではなく社会全体を踏まえて経済を考えていくこと」、「個人を原点とするのではなく徹底して集団発で現実を捉えて経済システムを構築していくこと」を学ぶことが出来ました。</span>


次回は日本の江戸時代における経済学者を紹介します。
最後まで読んで頂いてありがとうございます☆]]>
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