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2008年09月16日

暗躍する外交官と「金貸し」の支配戦略

日本金融史9~イギリスがプロデュースした明治維新~に登場したアーネスト・サトウは、1863年薩英戦争が起こった年に通訳として来日した若者(当時19歳)です。好奇心にあふれるサトウは訪れた各地で主要な人物と交流を深め、民衆の生活を知り、日本社会をもっとも理解する外国人となりました。


アーネスト・サトウ
画像は「ウィキペディア」から拝借しました。


イギリスが対日交渉の主導権を握った影に、サトウやシーボルトら外交員の日本人に関する情報が役立ったものと考えられます。
同時期に日本に進出した国はフランス。情報収集の幅の広さや通訳制度の充実の点において、フランスはイギリスの敵ではありませんでした。フランスの駐日公使レオン・ロッシュによる本国政府への報告はイギリスのそれに比べて質量共にはるかに劣ります。フランスの対日政策は、条約を履行する限り幕府を支持する楽観論で、薩摩・長州藩に対する視点が欠落している等、一面的な理解にとどまっていました。
またアメリカでは南北戦争が始まり、アジア進出にブレーキが掛っていました。


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2008年09月15日

日本金融史9~イギリスがプロデュースした明治維新~

『日本金融史7~日本の政治家が財閥に操られるようになったのは、何で?~』であげた追求ポイント
②薩長と金融資本(ロスチャイルド?)は、(いつから、どのように)関係しているの?についてです。


植民地拡大→世界の覇権争いを繰り広げる列強諸国にとって、日本は極東に残された最後の標的でした。地理的には他国を牽制する要所、すでに近世の成熟した都市が形成され、商工業がある程度発達している日本を開国に導き通商関係を結び、実質支配することが各国共通の狙いだったでしょう。ただ、そこは西洋人が容易に理解できない不思議な国・・・日本でした。


1854年アメリカのペリー提督は江戸湾で大砲の威嚇発砲を行って開国を迫り、日米和親条約を強引に締結させました。一方、イギリスの東インド艦隊司令官ジェイムズ・スターリングは異国船の窓口であった長崎に静かに入港し、日英和親条約締結にこぎつけるなど日本進出を競います。1858年には米、英、仏、蘭、露の5カ国と修好通商条約 が締結されますが、条約の履行を巡って諸外国と日本の間で(いかにも日本らしいが諸外国にとっては甚だわかりにくい)交渉が展開します。ここでアドバンテージを取ったのがイギリスです。


イギリス駐日公使ハリー・パークスは幕府と交渉を続ける一方で、薩摩・長州藩と友好関係を結び、日本人の手による倒幕・天皇政府樹立を陰で支援しました。パークスは第14代将軍徳川家茂が病死すると、大名の家臣や幕府の下級役人から後継者に関する情報を収集させ、政変の舵取りにかかります。イギリスはアレグザンダー・シーボルト(フィリップ・シーボルトの子)、アーネスト・サトウ等の優れた通訳者をかかえており、彼らは有能な諜報員でもあったのです。
彼らの得る情報の緻密さは他国のそれをはるかに上回っていました。

結果的に、明治天皇政府を最初に承認した外国人はパークスです。

ハリー・パークス
画像は「ウィキペディア」から拝借しました。

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2008年09月14日

日本金融史8~欧米(の金融資本)が日本に開国を要求した目的は、何?~

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前回の『日本金融史7~日本の政治家が財閥に操られるようになったのは、何で?~』を扱う中で、疑問として残った点。「政財界の背後に、欧米の財閥はどのように関わっていったのか?」という追求ポイントの中の①欧米(の金融資本)が日本に開国を要求した目的は、何?を、今回は調べてみました。 m060

調べていく中で見つけた、学校では習わなかった(教えられなかった)近代日本史を 『反日ワクチン』  【列強のアジア進出か】からの内容をお借りして(一部抜粋)紹介してみようと思います。 Wink

幕末の日本が開国に至るには、幕府の弱体化だけではなく、諸外国の動性、思惑が大きく影響していたんですね! Shocked

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2008年09月11日

戦後日本の高度経済成長を検証するNO.8~整理

Taiyo_no_tou_640.jpg
この間、私達は、戦後日本の高度成長を検証すると進めてきました。


ここでこれまで調べた内容を整理してみました。

調べる前は、歴史的に経済活動の起爆剤としての役割を持つ戦争が、他の事例と同様に戦後の日本経済を押し上げていることを明らかにし、その背後に金貸しの存在アリと思っていたのですが、金貸しはもっと強かに日本経済に食い込んでいたことが分かりました。


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2008年09月10日

戦後日本の高度経済成長を検証する NO.7~国際石油資本の傘下で成し遂げた復活劇

戦後の日本は、アメリカによって、戦後復興援助を与えられつつ、財閥解体や産業施設の占領、撤廃などにより、産業基盤を弱体化させられた。


その後、1949年のアメリカ軍による占領政策の転換によって、それまでの様々な規制が撤廃され、弱体化した産業の復興が推し進められた。


そして1950年からはじまる高度経済成長期を迎える。
この高度経済成長期を支えた、工業地帯復活の流れを、石油産業を中心にまとめてみた。


DSC_3996.jpg


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2008年09月01日

日本金融史7~日本の政治家が財閥に操られるようになったのは、何で?~


 

 
 
夏の盛りは過ぎましたが、つぎは読書の秋が迫ってきたせいか、書物片手に社会のこと、歴史のことなど勉強する姿を、最近、周りでたくさん目にします m164
 
さて、本シリーズの前回記事は、こちら m118
『日本金融史6 ~三菱財閥躍進を裏から支えたアメリカ~』
 
今回は、明治期の政治家と財閥の力関係について、見ていきます。
 
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2008年08月28日

戦後日本の高度経済成長を検証する NO.6 ~世界銀行を通した融資でドル需要を拡大~

今回はNO.4に引き続き、「世界銀行」からの融資の実態について調べていきたいと思います。

まず、世界銀行の組織と沿革について「ウィキペディア」で調べてみます。

◆◇世界銀行◇◆


世界銀行(せかいぎんこう、WB; World Bank)は、各国の中央政府または同政府から債務保証を受けた機関に対し融資を行う、国際連合の専門機関。当初は国際復興開発銀行を指したが、1960年に設立された国際開発協会とあわせて世界銀行と呼ぶ。国際通貨基金と共に、第二次世界大戦後の金融秩序制度の中心を担う。本部は米国のワシントンD.C.加盟国は184カ国。

1944年7月、ブレトン・ウッズ会議において国際通貨基金とともに国際復興開発銀行の設立が決定され、国際復興開発銀行は1946年6月から業務を開始した。設立当初、国際通貨基金は国際収支の危機に際しての短期資金供給、世界銀行は第二次世界大戦後の先進国の復興と発展途上国の開発を目的として、主に社会インフラ建設など開発プロジェクトごとに長期資金の供給を行う機関とされ、両者は相互に補完しあうよう設立された。


現在、日本は世界銀行グループ各機関において第2位の出資・搬出国であり、積極的な資金提供を行なっているようです。 Smile

しかし、戦後の外貨不足に苦しむなかにおいては、当時の日本はむしろ借入れ側。世界銀行からの融資を盛んに利用して復興に役立てていました。


その中身はというと…続きはポチッとお願いします。


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2008年08月18日

日本金融史6 ~三菱財閥躍進を裏から支えたアメリカ~

iwasaki.jpg岩崎 弥太郎
 
今回は、先日の日本金融史5 ~三菱財閥はどのように誕生したのか?~
に引き続き、その後新興三菱財閥が三井と肩を並べるまでに急成長した背景を探ってみました。
 
三菱財閥が大躍進したのは、1877年の西南の役の時です。西南の役を鎮圧するために政府軍に武器を供給したのが、三菱の前身である九十九商会なのです。この時九十九商会は、艦船から大砲、弾薬まで、戦争物資を一手に引き受けて明治政府に納品し、その年の国家予算のなんと1/3を受け取ったのです。
 
なぜそんなことが可能だったのか、実は、こんな背景があったのです。
 
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2008年08月17日

日本金融史5 ~三菱財閥はどのように誕生したのか?~


こんにちは Very Happy
皆さん、暑いさなかですが、いかがおすごしでしょうか?

本シリーズの前回記事『日本金融史4 ~明治政府と商人を結びつけたのは、結婚による縁結びだった!~』では、明治時代に政財界の結びつきがどのようにして育まれたのか、という点に注目しました。今回は、政財界の結びつきを巧みに利用して誕生した巨大財閥である三菱財閥に、焦点を当てます Cool

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2008年08月14日

戦後日本の高度経済成長を検証する No.5   ~ブレトンウッズ体制の裏にある驚くべき事実(@o@;~

戦後日本の高度経済成長の1つの大きなきっかけとなった『ブレトン・ウッズ体制』 m179

ウィキペディアで調べてみると、こう書かれている。

◆◇ ブレトン・ウッズ体制 ◇◆

国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定したこれらの組織を中心とする体制をブレトン・ウッズ体制という。

この協定は1929年の世界大恐慌により、1930年代に各国がブロック経済圏をつくって世界大戦をまねいた反省によっているだけでなく、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があった。そのため具体的には、国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発を行い、自由で多角的な世界貿易体制をつくるため為替相場の安定が計られた。

そのため、金1オンスを35USドルとさだめ、そのドルに対し各国通貨の交換比率をさだめた。(金本位制)この固定相場制のもとで、日本円は1ドル=360円に固定された。

このブレトン・ウッズ体制をとったことで、アメリカは後に大打撃 Shocked を受けた。
大赤字になり、ドルの刷りすぎでインフレや金相場の値上がりが起きた。


素人ながら、なぜこんなに大打撃を受けるような体制をアメリカは取り入れたんだろう?
予想できなかった??なぜなぜ???


と思って調べていくと、驚きの事実が隠されていました・・・(@o@;


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2008年08月13日

戦後日本の高度経済成長を検証する NO.4 ~無償援助の裏に隠れた穀物メジャーの存在!~

前回の続き「戦後日本の高度経済成長を検証する NO.3」の文中にある、アメリカからの無償援助や世界銀行からの融資の実態について調べていきたいと思います。
中でも今回は「アメリカからの無償援助」について調べて見ました。


まず、アメリカからの無償援助の代表例としては、大きく「ガリオア資金」「エロア資金」を挙げることができます。援助総額は2つを通じて約18億ドル(現在価値で約12兆円とも言われる!)に上ったといわれます。

 日本はこれらの基金を用いてアメリカから物資の無償提供を受け、日本国内で売却することによって得られた資金で、主に通貨安定、国鉄、電気通信、電力、海運、石炭などのインフラを中心とする経済復興用の低利融資の原資として使用しました。尚、資金の用途についてはアメリカの制約を受けるのが特徴です(見返り資金)。

以下、「ウィキペディア」からの引用です。

◆◇ガリオア資金◇◆

第二次大戦後、アメリカ軍占領地の疾病や飢餓による社会不安を防止し、占領行政の円滑を図るためアメリカ政府がオーストラリア等の占領地、そして旧敵国の占領地である日本と西側ドイツに対して陸軍省の軍事予算から支出した援助資金である。例外として朝鮮にも割り当てている。

~中略~

対日援助額は、1946年度から1951年度までの累計で16億ドル弱であり、占領地域経済復興資金 (EROA, Economic Rehabilitation in Occupied Area) と合わせても18億ドル強にとどまる。

日本向けには脱脂粉乳、雑穀類を食料として送った。

ここで疑問が浮かびます Confused
戦後当時の日本は外貨不足に非常に悩んでいました。
しかし、その状況下で食糧を主な援助品に選んだ理由は何!?

そう思って調べていくと、食糧援助を実施するに至る背景には、周到に練られた計画の存在がありました。
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2008年08月04日

廃藩置県の大混乱と大手両替商の破綻

日本金融史3~三井財閥がどのように誕生したか~
で幕府に大金を貸していた「大阪の商人はどうした?なぜ動かなかった?」が疑問に出ましたね。
明治時代になると大阪の両替商がなぜ消えていったのか?その疑問に迫りたいと思います。

廃藩置県(1871年) haihanchiken.jpg

「廃藩置県の詔」読上げの図


1871(明治4)年,明治政府が江戸幕府以来の藩を廃止して府県に統一したこと。版籍奉還後も旧藩主が知藩事となり,封建制度が存続していたのをあらため,中央集権体制を強化しようとして行われた。地方は3府302県となり,知藩事に代わって府知事・県令(のちの県知事)が中央から派遣された。この結果天皇を中心とする中央集権国家の統治基盤が確立した。
◇この年さらに,府県を統合して3府72県とした(1890年には3府43県)。


図は 探検コム 様から
説明文は 学研キッズネット 様から拝借しました。


みなさん覚えていますか?学校の「歴史」で教わったのはこんなモンでしょう。

「廃藩置県」は、中央集権を確立して国家財政の安定を目的としたもので、これにより欧米列強による植民地化を免れたとされています。加えてそれまでの封権制度を解体して新しい時代の夜明けを迎える改革というイメージが定着しています。

実はこの「廃藩置県」という政策には、学校で教わらないとてつもなく大きな意味があったのです。


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2008年08月03日

日本金融史4 ~明治政府と商人を結びつけたのは、結婚による縁結びだった!~


前回の記事~三井財閥がどのように誕生したか~では、三井を例に、財閥が明治維新前後にどうやって拡大したのか、を取り上げましたm034

今回は、明治期に、政界と財界(政治と経済)がどうやって結びついたのか、そこに焦点を当ててみますSmile m040
 
まずこの図がなんだか分かりますかm050
薩摩出身で初代大蔵大臣と総理大臣を歴任した松方正義『血縁関係』を示したものなんです!

三菱・三井などの大財閥を始め、当時の名立たる富豪の名が並んでいますShocked m004
どうしてこんな血縁関係が生まれたんでしょうかm052 m052 m052
そのカラクリを探ってみたい方は、ポチっとお願いしますm021

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ありがとうございます m024

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2008年07月31日

戦後日本の高度経済成長を検証する No.3   ~朝鮮特需による外貨獲得~

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シリーズ「戦後日本の高度経済成長を検証する」第3弾!!
第1弾第2弾に続いて、今回は、1949年4月の単一為替レート(一㌦=360円)から「ドッジ不況」によって停滞した日本経済が、その後、どのようにして経済成長を掴むことができたかの序章です。


日本経済が、大きく躍進するきっかけとなったのは「外貨」獲得ができるようになったからです。
というのも、戦後の日本は物資もインフラも整っていない非常にビンボーな状況でした。
生産力(労働力)を付けようにも、その原資が不足しており、海外から輸入しようにも、当時は外国に払えるほどの「外貨」準備が少なく、調達は非常に困難でした。

そのため、「外貨」獲得によって、輸入が可能となり、国内需要を潤おすことに繋がります。


では、ここで問題です!!


「外貨」獲得のきっかけとなった出来事は大きく2つあります。その2つとは、一体、なんでしょうか?


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2008年07月21日

日本金融史3 ~三井財閥がどのように誕生したか~

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前回の記事~蛾=生糸から産業が生まれ、銀行が生まれた~では日本の銀行を初め、通信も鉄道も新聞も、繊維業の生み出した資金で始まった という事が分かりました。また、三井・三菱・住友・安田・古河などの財閥が幕末から明治初期にかけて、形成されていますが、これも全産業の70%を占めた、繊維業が生み出した資金によるもののようです☆

今回は、幕末~明治維新にかけて、日本の金貸したちがどういう形で誕生したのか?政府に取り入る事で財閥となるまで拡大した三井の例を、 『持丸長者』(広瀬隆著)を要約する形で、取りあげてみようと思います。

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2008年07月17日

ドッジ・ラインのしくみについて ジョセフ・M・ドッジって何者!?

前回、6月23日のブログで、「戦後日本の高度経済成長を検証する」という記事を紹介した。
今回は、その続きである。

戦後の日本を変えたドッジラインという政策。
それを立案・勧告した人物こそ“ジョセフ・M・ドッジ”その人だ。
だが、彼の正体は意外に知られていない。


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2008年07月07日

明治政府の捏造~日本に文明開化をもたらしたのは誰か?~

日本金融史1 ~近代化の始まりは明治維新ではない!~  
で↓の文章を掲載しました。

こうして見ただけで、維新後に日本をリードした近代的産業の母体を、徳川幕府に仕えていた頭のいい人間たちが生み出した姿が浮かびあがってくる。維新政府は、その幕府の要人をこの世から抹殺して物言えなくしてしまい、旧幕府をさんざんにののしり冒瀆しながら、実はあとから出てきて、幕府が磨いた知恵と遺産を横取りし、それをすっかり利用し、あたかも文明開化が自分たちの功績であるかのように喧伝してきたにすぎないのではないかという疑念が湧いてくる。
(広瀬隆著「持丸長者」より抜粋)


同じ広瀬隆著「持丸長者」に、日本に外国の知識を伝えるのに大きな役割を果たした人たちが時代順に書かれてあったので要約してみました。



「大日本持丸長者鑑」(早稲田大学図書館蔵)

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2008年07月06日

日本金融史2 ~蛾=生糸から産業が生まれ、銀行が生まれた~

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錦絵「上州富岡製糸場」(明治5年)

今回は、日本金融史2として、日本金融史を考えるに、幕末から明治にかけての製糸業の果たした役割をみて行きたいと思います。


◆開港から始まる、生糸輸出と財の蓄積

安政六年(1859年)に、外圧に耐えかね、長崎・横浜・函館が鎖国を破り、商業貿易港として開港されます。中でも、横浜開港の影響が大きく、ここで行なわれた生糸の輸出による産業の発展と財の蓄積が、その後の政治や銀行設立や財閥の形成と大きくかかわりを持っているようです。


横浜開港の4年目(1863年)には、実に生糸輸出の99%が横浜に集中し、明治の中ごろまでには、生糸生産の中心地である関東甲信地方に、その輸出の7割を握る、五大売込商という輸出商人がうまれ、その後、これらの売込商は各地の有力者と婚姻関係で結びつき、財閥とも関係を深めて行くのです。

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2008年07月02日

激化する地銀の生き残り競争

日本の地方銀行を取り巻く経営環境が年々悪化する一方のようだ。

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ここ最近、地銀同士の生き残りをかけた再編が加速している。報道も後を絶たない。


13日明らかになった荘内銀行(山形県鶴岡市)と北都銀行(秋田市)の経営統合劇は、経営環境が一段と厳しさを増す地方銀行が県境を超えた広域再編に生き残りをかける姿を示している。多くの地銀が、地方経済の低迷で収益源の中小企業向け貸し出しは伸び悩み、不良債権処理の負担も増えている。米サブプライムローン問題をきっかけにした金融市場の混乱で保有株式の価値が目減りするなど収益を圧迫する要因は増えるばかり。地銀再編のうねりがさらに加速しそうだ。2008年5月14日読売新聞より引用

尚、過去2年の再編事例を整理してみると・・・

2007年
・福岡銀行(福岡)と熊本ファミリー銀行(熊本)が経営統合し、ふくおかFGの傘下に入る
・山形しあわせ銀行(山形)と殖産銀行(山形)が合併し、しきらやか銀行になる
・自力再建を断念した九州親和ホールディングスがふくおかFGの傘下に入る

2008年
・池田銀行(大阪)と泉州銀行(大阪)が経営統合の計画発表
・金融庁が足利銀行を野村證券グループを中心とする陣営に譲渡する方針を決定

営業地域や顧客基盤による棲み分けに守られてきた地銀経営が瀬戸際に追い込まれている現実を示している。

地場の中小企業と共に地方経済の中軸プレーヤーとして力を発揮した地銀に、今一体何が起こっているのだろうか?その原因を探ってみた。


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2008年06月30日

天下一の両替商~「鴻池家」と江戸時代の金融システム~

日本金融史1 ~近代化の始まりは明治維新ではない!~

日本の金貸し達は、どのように生まれ、どのようにしてその勢力を拡大してきたのか。また欧米の金貸し達とは、どのようにつながってきたのか? 歴史をさかのぼって追求していきます!


歴史をさかのぼれば、商業を生業とする町民が登場するのは平安後期あたりだといわれています。戦国時代になると、のし上がる大名に取り入って財を成した商人が多く、支配者と商人の結びつきが次第に強く、濃くなってきます。そして戦国の混乱から江戸期に入ると市場規模拡大にともなって、物品を取り扱わず「金銭」を売買する両替商=『金貸し』が登場します。

江戸時代の両替商といえば大坂の『鴻池屋(鴻池家)』、江戸の『越後屋(三井家)』が代表的ですが、近世から現代に至るまで日本国中知らぬものはないぐらいに『金貸し』として名を馳せたのは鴻池一族をおいて他にないと思われるのでまずは『鴻池家』を紹介し、合わせて江戸時代の商人がすでに近代金融システムの基礎を築いていたことを明らかにしておきたいと思います。


鴻池家の代々当主は鴻池善右衛門(初代~13代)を名乗り、日本を代表する豪商として、長く繁栄しました。全盛期には全国110藩が鴻池家から融資を受けていたらしく、「鴻善ひとたび怒れば天下の諸侯色を失う」とまで言われました。幕末には鴻池家の資産は銀五万貫にも達しており、幕府の全資産に匹敵する額の資産を蓄えていたそうです。


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双六に描かれた鴻池屋


鴻池家が商人として成功し、大富豪になっていった物語は実に面白いのですが、関連する書物も多いので詳述は他に譲り、ここではあらすじだけ紹介します。


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